春の混迷は去った。夏が、あの『熱病の聖母』の想いびとが、燃え上がる大地へとみずからを注ぎかけた。灼熱の時の流れの上に、ヴァリーの幻は情容赦なく君臨していた。ヴァリーの幻を追って、私の血は涸れ、私の骨髄はひからびてゆくのだった。私は花を恐れた、腹黒い敵を恐れるように。私は音楽を恐れた、隙をうかがっている刺客を恐れるように。なぜなら花や音楽は、回想させるという背信行為を常に隠し持っていたからである。彼女たちは私が熱愛すると同時に激しく憎んだあの心ない青いひとみを無情にも思い出させるのだった。かつての憎悪が今は懐かしく、心とろかす慕情のように私の心をかき乱した。声が記憶の中で鳴り響いた。時おり、私は歯を食いしばって、私を彼女のもとへと引きずってゆこうとする狂おしい後悔の念と必死に戦った。
私はヴァリーの友人たちを避けていた。にもかかわらず、私は何か思いがけない偶然が、天の至高の命によって、彼女とふたたびめぐり会わせてくれるか、あるいは少なくとも彼女のうわさを耳にさせてくれることをひそかに願っていた。私の願いはかなえられた。私はまったくの偶然から、ヴァリーと売春夫氏とのあいだで内々に進められていた縁談が、今は公けのものとなったことを知った。
この期に及んでもなお彼女に未練たらしい手紙を書き送るほど私は馬鹿だった。返事はなかった。私は社会的に抹殺された者の苦しみ、生きながらにして葬られた者の苦しみを味わった。もはや泣く気力も失せ、自分自身のために涙を流すという、不幸な人々にのみ許されたあの唯一のこころよい慰めすら失ってしまった。
しかしながら、ある朝、私は少し気分がよくなったような気がした。眠っている間、私の額は菫の花の芳香にひたされていたかと思われた。
いつも目をさますと同時に感じるあの咽喉を締め付けられるような圧迫感が、その朝はなかった。開け放たれた窓から差し込んでくる日の光も、花壇から立ちのぼってくる藤の花の香りも、もはや私をおびやかしはしなかった。
私は自分自身にそっと問いかけてみた。どのような未知の優しさが、あの『熱病の聖母』の有毒な息吹きを一掃してくれたのであろうかと。そうして外の景色を眺めて、私ははじめて夏が去って、秋が来たことを知った。
枯れた花々の優しさが私の胸に浸み透った。私は柳の木がその紅い髪の毛をひたしている水のほとりをさまよった。菊の花を見れば、その物悲しい色調は色あせた葉と見事なハーモニーを奏でていた。木々は木の葉の衣装を脱ぎ捨てたことでさらに美しく、すでに冬木立の繊細な骨格をよじらせていた。
世は秋の優しさに輝いていた。もう何も思い残すことはない、そう思った。そうして故知らぬ期待を胸に目を上げたとき、私は目の前に、まさに十月の静けさで、エヴァが立っているのを見た。
彼女は秋の化身そのもののように見えた。殉教者の細長い両手には、枯れた木の葉に混じって、数輪の菊の花が息絶えていた。そのドレスの物悲しいプリーツが、彼女のまわりを流れ落ちていた。その姿は虹よりも、黄昏よりも輝かしい窓ガラスにはめ込まれていた…私はかつて、都会の騒音に悩まされながら、彼女の神秘的な名を、聖なる名を、一人つぶやいたことを思い出した。そのとき突然、空気で出来た鐘の音が、雑踏の喧騒の上を天翔けたのだ。聖なるカリヨンのひびきは彼女の名を歌い、叫び、風の中へと放り投げていた、エヴァ!エヴァ!エヴァ!と。
*訳者注:上の「ワンピースの…」から「はめ込まれていた…」までの行、私が使用しているテキストには誤字脱字があり、意味が取れません。ジャネット・フォスターの英訳に従って読みます。
…彼女は私に近づいてきた。神秘的な魅力を台無しにするような如何なる空しい言葉も発されることはなかった。私は彼女を理解し、彼女もまた私をひとしく理解した。
「私の優しい『秋』」私はつっかえながら言った。「私の愛しい『秋』」
私たちは『永遠』の入口に立っていた。目に見えないステンドグラスが彼女の周囲にあまりにも奇跡的な輝きを投げかけていて、私はそのまぶしさに耐えることができなかった。悲しみに負けないくらい大きな希望が生まれるのを感じた。
彼女はただ静かな笑みを返しただけであった。
このときダグマーの姿が、あの愛らしい磁器人形の姿が、何ゆえにその不安定な心もとない魅力をもって、私たちの間に立ちはだかったのか、私は知らない。
いかなる人間の苦悩よりも激しい苦悩が私を捕えたのはその時だった。私の目はエヴァの灰色の目に、聖香の煙の彼方にかすんで見えるようなそのはるかなひとみに、釘付けになった。
「エヴァ、あなたは怖くないの」私はいつぞやの問いを繰り返していた。
「私に怖いものなど何もない」と彼女は答えた。
その言葉は夕暮れの教会の奥から流れてくるパイプオルガンの音のように響いた。
「あなたは私の心の傷よりも強いの」私はすがる思いでたずねた。
「私はあらゆる人間の心の傷よりも強い」と彼女は答えた。「なぜなら私は『慈悲』そのものなのだから」
聖なる沈黙が二人を取り巻いていた。涙ながらに愛を告げることを、私は敢えてしなかった。(第20章終わり)