cygnus_odileさんがブログに和訳を連載されている『サッフォー:百の詩篇 by Bliss Carman 』がいよいよ大詰めということで、目の離せないところですが、このブリス・カーマンのサッフォー訳詩(厳密に言うと、ほとんどすべてカーマンの創作と言った方がいい)は、沓掛良彦氏も触れておられる通り、日夏耿之介が今から九十年以上前に抄訳を試みているので、今日はそれをご紹介しようと思います…が、その前にちょっと前置きをしておかなければなりません。
まず沓掛良彦氏の『サッフォー 詩と生涯』についてですが、実はわたくし、この本はまだ読んでおりません。何せアマゾンの読者評がひどく不評で「『放縦』『淫蕩』などという単語が軽率に使われている」「あたかも『同性愛』が『異性愛』よりも劣るものであるかの如くに見なして『サッフォー問題』を取り上げている」「サッフォーに関して知りたい方は、お読みにならないように申し上げておきます」などと書かれているのを見ますと、無理に読んだら何だか血圧が上がりそうで、敬遠させていただいている次第です。ただ、シグナスさんの記事にありますように、日夏のサッフォー訳詩が彼のいわゆる「ゴシック・ローマン詩体」で物されていると沓掛氏が書かれているならば、それは誤りです。日夏の「ゴシック・ローマン詩体」というのは『黒衣聖母』(1921年)の頃のスタイルを指すので、彼のサッフォー訳詩のスタイルはそれよりもっと初期の、あとで見ていただきます様に『転身の頌』(1917年)の頃のスタイルです。
日夏の詩を初めて読んだ方がまず驚かれるのはその自由な振り仮名の振り方です。たとえば「宇宙」と書いて「かくれが」と読ませるようなたぐいです。もっとひどい例としては、こんなのがあります。
民主経 黎民偈を俗解曲釈し
黄口児幼に媚をもとめて次いで…
この「民主経」のところには「ホイツトマン」、「黎民偈」には「トラウベル」、また「黄口児幼」には「みなさま」と振り仮名が振ってあります。
この奇妙な振り仮名の振り方=「ゴシック・ローマン詩体」と勘違いされている方も多いようですが、この手法自体は日夏のごく若い頃の発明だったようで、彼は『転身の頌』の序にこう書いています。
象形文字の精霊は、多く視覚を通じ大脳に伝達される。音調以外のあるものは視覚に倚らねばならぬ。形態と音調との錯綜美が完全の使命である。この『黄金均衡』を逸すると、単に断滅の噪音のみが余計に響かれる。
要するに、日本語において「字面」というものは非常に重要な構成要素であり、詩人が言語美の世界を構築する上で、この資源を利用しないという手はない。鈴木孝夫のいわゆる「テレビ型言語」説は、この日夏の手法の有効性に、言語学的な裏付けを与えたものだと言ってよろしいでしょう。
というわけで、このブログのように、横書きでルビも振れないような環境において、日夏の詩を引用しようとするのは、ある意味で日夏の作品を冒涜する行為と言われても仕方ないのですが、あえて弁解するなら、大詩人の作品というのは、たとえ数個の単語の無造作な組み合わせに見えるものでも、その実質は大地に深く根を下ろした巨木のように頑丈なもので、多少ゆさぶったりしたところで倒れはしない。つまりいささか拙い引用の仕方をしても、その魅力の何割かは確実に読者に伝わるものだと、個人的には考えております。
まず「ゴシック・ローマン詩体」の例を挙げましょう。詩集『黒衣聖母』中の圧巻、これも日夏みずから称して「錬金秘儀七篇」と呼ぶ詩群のうちの白眉たる「夜の誦」より、そのクライマックス。
疲労と病頽と嗤笑と激罵と
青ざめた憂愁と狂歓と咆哮とのわたくし
第七戒をも棄てた如くに第一戒をも踏みにじれるわたくし
御身瑪利亜(まりあ)が真白く麗しき脚下に臥し沈み
卑屈なる求婚者のごとく
野心ある反間者のごとく
諂諛(てんゆ)する追従者のごとく
力込めて御身にあこがれ
伏し倒れ 自ら噛みしめ 夢見心地に
御身が世にも崇高の浄麗に打たるる也
久遠女人よ アグライヤよ エウフロシネよ ターリアよ
美貌の聖母よ 美の酵母よ 稀代なる真珠母(しんじゅも)よ
「美貌の聖母よ、美の酵母よ、稀代なる真珠母よ!」この一行は不滅だと私は思っています。全く驚くべき職人芸です。
お気付きの方もおられると思いますが、少し屈折した響きが混じるのが「ゴシック・ローマン詩体」の特徴で、ボードレールなら「イロニー」と書きそうなところです。『転身の頌』の世界は(字面はどうあれ)もっと単純かつ素朴な世界で、
空は悲しび
遊星の眼を泣きはらし
さめざめと
銀の泪す 卯月の夜!
(「晶光詩篇」)
といった、大変ロマンチックで感傷的な詠嘆がその基調となっております。
さて、ようやく日夏のサッフォー訳詩です。これは『海表集』という訳詩集に十二篇入っておりますが、まずはこの一篇。
美童ぞわがものなる、
さりや 黄金(こがね)の花なれや、
寵童(めづこ)クレイス
すべてリディアの真土も
はた麗しき希臘(ヘラス)もただに値ひせまじを。
(原詩およびシグナスさんの口語訳はこちら )
サッフォーが愛娘クレイスについて歌ったとされる名高い断章です。カーマンが蛇足を最小限にとどめてくれてよかったと思います。
椈(ぶな)の木立の風しづかに
岸うつ浪もひくかりし、
みどりなすこの黄昏を
ひなつぼし 高灯台とかがやきぬる。
されどもここにあだなりき この潮騒も吹く風も
黄金いろなす行星(かうせい)も
わが胸の上
きみが金髪(みぐし)の旗手(はたて)なすひろごりつれば。
(原詩およびシグナスさんの口語訳はこちら)
最後の二行が素敵です。また、ここでは女性同士の恋愛がテーマであることが、かなりはっきりと示されています。
冷爽(つめたさ)は
林檎樹の水枝に私語(つぶや)き
灰じろの葉などあはれ
ねむり徘徊(もとほ)へるあたりにはたと鼓翼(はばた)きぬる。
わが後園(その)の
いとどあたたかきこの白日(まひる)
薄明(うすらあかり)をさみだるる
跫音(あのと)をせちに待ち侘ぶるこの身かも。
(原詩およびシグナスさんの口語訳はこちら)
これのどこが面白いかというと、『転身の頌』の世界まであと一歩というところだからです。「夏の日の後園(こうゑん)に燃え立つ花は…」などの詩句が頭に浮かびます。
最後に箴言体の一篇を掲げておしまいにします。カーマンのサッフォー訳詩というのは、上にも書いた通り、本物のサッフォーが遺した断章には必ずしも依拠しておらず、むしろ大部分がカーマンの創作なので、これを史上のサッフォーの作品と混同するのは禁物ですけれども、そこさえ押さえておけばそれなりに美しく、鑑賞に堪える一種の名作だと考えます。
死が善からましかば なにのゆゑに
神神死したまはざる。
生が悪しからましかば なにのゆゑに
神神ながらへたまふ。
恋が無(む)ならましかば なにのゆゑに
神神なほ恋したまふ。
恋が全(ぜん)ならましかば、
人 恋をよそに なにごとをか為してむ。
(原詩およびシグナスさんの口語訳はこちら)
追記:画像はシグナスさんが作って下さった縦書き化画像です。他にもありますので、こちらをご覧下さい。