90歳のナタリー・バーネイにとって、ルネ・ヴィヴィアンとレスボス島で過ごした日々の思い出は、すべてが美しいものであったに違いありません。ミチレーネの港に着いた時、二人を迎えた観光案内の蓄音機の調子っぱずれな声も、田舎のホテルも、年取った女中も、毛の抜けた犬も。水浴びをし、乾いた海藻の上で眠り、薔薇の香りと星空とを胸いっぱいに吸い込んだ日々。「サッフォーの時代のような、女性詩人のコロニーを作る」という夢がふたたび話し合われます。しかしナタリーにとってもっとも甘美な思い出は、ルネの肉体がナタリーの愛撫に対してはじめて彼女が期待した通りの(あるいは期待した以上の)反応を示してくれたことでした。二人ははじめて本当の意味で結ばれたわけです。
しかし「幸せは長くは続かない」のがメロドラマの鉄則です。やがて二人のもとへ、だるま女からの手紙が届きます。レスボス島へ押しかけてくると言うのです!震え上がったルネはただちに電報を打ち、だるま女に思い止まるよう説く一方、みずからもだるまが待つオランダへ向けて旅立ちます。そうしてただ一人パリへ戻ってきたナタリーは、やがてルネからの「絶縁状」を受け取ります。
ナタリーはこの「絶縁状」が無理やり書かされたものだと主張している。これには根拠がありまして、事実オランダから来た一通目の手紙とこの「絶縁状」とは、かなり文章の調子が違うのです。ちなみにこの本(ジャン・シャロン著『レスボスの女王』小早川捷子訳)にはルネからナタリーにあてた手紙がかなりたくさん載っております。中には数ページにわたる長文のものもあります。ナタリーは年をとってもルネからの手紙を大切に保存していたわけですね。これらはみな貴重な文学史的資料です。ナタリーからルネにあてた手紙は一通も載っていませんが、ルネの伝記などで紹介されているのでしょうか?
オランダからの一通目。
汽車がこんなに速く、こんなに遠くまで出発するとすぐ、わたしは耐え切れず泣いてしまいました。生きる情熱や美しいものをすべてあとに残してきたことが、わたしにはわかったのです…何もかも奪われてしまったのです…あなたとのあの素晴らしい旅行のあとでは、この平凡で退屈なオランダがいやでたまらない。あなたがいなくてとてもさびしい。口で言えないくらい、信じられないくらい、自分でも本当にできないくらい…
「絶縁状」はこんな調子です。
こんな手紙を書くのは少し恥ずかしく、とても悲しいのです。わたしの金髪のセイレーン。でもそうしなければならない…あのひとだけがわたしの運命の主人なのです。あのひとはわたしの力であり、わたしの意思なのです。わたしの命はあのひと次第…ただ一人のひとが、わたしの身も心も所有していることをよく弁えて、今後はわたしを放っておいて下さい…
これを読んだナタリーは絶望して遺書を書いたそうで、その遺書の内容も紹介されておりますが、間違っても自殺なんかする人ではありませんから、ご心配には及びません。
1906年、だるま女はまるで遊び飽きたオモチャを捨てるように、あっさりとルネを捨ててしまいます。飛び交うゴシップ。ルネはヨーロッパから遁走します。
罵りの声はいらくさの鞭のように打ちつけていた。
彼らがついにわたしを解放した時、わたしは出発した。
わたしは風のまにまに出発した。そしてその時から、
わたしの顔は死者の顔と同じになった。
(ルネ・ヴィヴィアン「晒し台」)
もしナタリーが本当にルネと「復縁」したかったなら、この頃が最後のチャンスではなかったかと思われますが、あいにく当時ナタリーは別の獲物(=女)を追ってロシアまで遠征中でした。この遠征も大規模かつ骨の折れるものだったようですが、結局お目当ての美女は男と結婚してしまったので、この女ナポレオンは男のナポレオンと同様、すごすごと退却せざるを得ませんでした。帰りの車中、悔しさを紛らわせるために、彼女はヴォルテールの『カンディード』を読み、ゲラゲラ笑っていたということです。
ルネが重病だとナタリーが知ったのは、1909年も11月になってからでした。お見舞いに駆けつけたナタリーに、執事はそっけなく答えた。「お嬢さまはお亡くなりになりました」
こうして二人の女性詩人の世紀のロマンスはあっけなく終わってしまいました。ルネ・ヴィヴィアンこと本名ポーリーン・ターン、享年弱冠32歳。ナタリーが調べ上げたところではルネの最期には二説あって、一説はルネが「この瞬間が、わたしの一生で一番素晴らしい瞬間です」とささやきながら死んだというもの、もう一つは最後に「ロアリー…」と呟いて死んだというもの。ナタリーが信じたのはむろん後者で、なぜならロアリーというのはルネの小説『一人の女がわたしの前に現れた』に登場するナタリーがモデルと見られる人物の名で、ヒロインはこのロアリーに「墓の中で塵となっても、わたしはあなたのもの」と誓う筋書きとなっていたからです。