縁が無くて別れたのならすっぱりとあきらめた方が潔いような気もしますが、この時のナタリーはあきらめませんでした。事実、ナタリー・バーネイは90歳になっても、ルネ・ヴィヴィアンが自分以外の女性を愛することなどありえないと考えていたようです。あるいはこの辺の気の持ち方に長生きの秘訣があるのかも知れません。ルネを取り戻したいというナタリーの願望に火をつけたのは、ルネの第4詩集に収められたこんな詩だったそうです。
炎や歌声や百合の息吹とともに、
ひそかに洩れては天に昇る、
わたしの心の、内なる魂のすすり泣きが。
アティスよ、わたしはお前を愛していた。
ここでルネ・ヴィヴィアンは既に過去のものとなったナタリーとの関係を、サッフォーとアティスの関係になぞらえているわけですね。これを読んだナタリーはあきらめるどころか、ルネがまだ自分を愛していると意を強くしました。この前向きな捉え方がよいと思います。彼女はこれに応えて「一時間だけ会ってほしい」という内容の詩を書きますが、これを二十四時間だるまパンの監視下に置かれているルネのもとへ届けるのは至難の業です。それでどうしたかと言うと、歌手で女友だち(恋人?)の一人にルネの家の窓下で歌をうたわせ(その歌はビゼーの「恋は野の鳥」だったそうです)ルネが窓を開けたところへ詩と花束を投げ込んで逃げたそうです。ずいぶん無茶なことをしたものです。噂が噂を呼び、ルネとナタリーの周囲は騒然となります。
ルネからは何の音沙汰もありません。ナタリーは「恥を忍んで家政婦に手紙を書き、同封した手紙をマドモアゼルに読んで聞かせるように頼んだ」。ところが「返事をよこしたのは家政婦」で、しかもそれは「かつてルネがナタリーへの愛の歌を記すために用いた、すみれの花で縁どられたクリーム色の紙にしたためてあった」。内容は推して知るべし。それでもナタリーはあきらめない。今度はかつての恋人で、今はよき相談相手となってくれているリアーヌ・ド・プージイに応援を依頼します。リアーヌはルネのもとを訪れて忠実に任務を果たしますが、色よい返事は得られません。「ルネはあなたをずいぶん恨んでいるけれど、どうして?」
遂にナタリーはアメリカからエヴァ・パーマーを呼び寄せます。いつぞやのアメリカ旅行のあと、ルネがナタリーへは愛想尽かしの手紙を送る一方で、エヴァには友情あふれる手紙を送っていたことを知っていたのですね。このエヴァという人もリアーヌ同様、ずいぶん心の広い人だったようで、本当にアメリカからやってきて、ナタリーとルネとの仲を取り持つために、ルネのもとを訪れますが、ルネはこのエヴァの訪問を逆手に取って、公然とエヴァとデートすることで、ナタリーと切れたことを皆に見せつけてやろうと考えます。ある意味でルネも成長したものだと思いますが、ナタリーの方がやはり一枚うわてでした。コンサートの指定席に座って待っていたのはエヴァではなくてナタリーだったからです。感激の再会。「和解と抱擁」。その夜、二人はシューマンに耳を傾けました。しかしいっぺんひっくりかえった盆の上の水が、そう簡単に元に戻るはずもありません。ルネが「復縁」に消極的な姿勢を見せるうちに、ナタリーはお父さんが急逝して、一時帰国を強いられます。
パリへ急いで戻ってきたナタリーは、ルネの家のほとんど真向かいにあるアパルトマンに陣取って、接触の機会をうかがいますが、ルネはそこにはいなかった。「たった独りでバイロイトにいるのである。いつもくっついているあのラ・ブリオッシュも連れずに。またとないチャンス!」ナタリーはバイロイト音楽祭に駆け付けます。この話をしながら、90歳のナタリーは「ああ、ワーグナー!」と溜息をついたということですが、これは恐らく音楽など聴いていなかったという意味だろうと思います。ルネ・ヴィヴィアンはふたたびナタリー・バーネイの魅力の前に屈服し、駆け落ちの約束をしてしまいます。だるまパンの旅行中に、二人はウィーンで待ち合わせ「オリエント急行に乗ってコンスタンチノープルまで行き、そこからレスボス島に向かって船出するのだ。昔の夢が叶えられようとしていた」。