ナタリー・バーネイという人の恋多き生涯(ただし相手は女性だけ)を描いた『レスボスの女王』という本を読んで、大変面白かったので、彼女のエピソードと言うか、ロマンスと言うか、アヴァンチュールと言うか、まあそんなもの(もちろん相手はすべて女性)をいくつかご紹介しようと思うのですが、その前に、彼女の人となりを大雑把に知っておく必要があります。以下は英語版ウィキペディアから、彼女のキャリアの要約です。
ナタリー・クリフォード・バーネイ(1876年10月31日-1972年2月2日)はアメリカ人でありながら、パリで執筆活動をし、文芸サロンを主催した。(中略)
彼女はオープン・レズビアンで、早くも1900年から同性に寄せた恋愛詩を彼女自身の名前で出版し始めた。スキャンダルについては『厄介ごとを追っ払う最良の手段』だと考えていた。その著作において、彼女はフェミニズム、パガニズム、パシフィズムを支持した。一婦一婦制に反対し、多くの相手と同時期に、短期間の、あるいは長期にわたる関係を持った。彼女の生涯と数々の恋愛事件は多くの小説に取り上げられ、フランスでベストセラーとなった好色本『サッフォーの牧歌』から、恐らく20世紀におけるもっとも有名なレズビアン小説『孤独の井戸』にまで及んでいる。
ここでもう一つ付け加えておかなければならないのは、彼女の実家のバーネイ家は大変なお金持ちで、彼女は生まれてから95歳で亡くなるまで、二度の大戦を経験しながら、終生お金に困ることがなかったという点です。ここを押さえておかないと、彼女の破天荒な生きざまは理解できません。
さて、後に「ワシントンのサッフォー」と呼ばれることになるこの美しいネイティヴ・レズビアンは、「栴檀は双葉より芳し」の諺どおり、12歳にして自分が同性しか愛せないことを悟るや、以後めきめきと頭角をあらわします。彼女は厳格なお父さんの意思に反旗を翻すべく、ひたすら機会をうかがいます。普通の良家のお嬢さんのように、型通り社交界にデビューして、男と結婚させられるのが嫌でたまらなかったのですね。
20歳になるかならないかの頃、ナタリーはお父さんに連れられてパリに現れますが、お父さんは所用でロンドンへ行かねばならず、「フランス語と文学の知識を磨くと言う口実で」ナタリーは独り(監視付きで)パリにとどまる許可を得ます。好機到来!パリジェンヌの美しさに魅せられたナタリーは、さっそく「ベルヴィルのサッフォーたちや、プレーヌ・モンソーのビリチスたち」(要するにパリのレスビエンヌたち)と接触しようと図りますが、所詮箱入り娘の身ですから、右も左もわかりません。そんな時、たまたま散歩中に、彼女はリアーヌ・ド・プージィという当時人気絶頂のクルチザンヌを遠目に垣間見て、一目惚れしてしまいます(その時、彼女はまだ「クルチザンヌ」という言葉の意味を知らなかったそうです)。しばらくしてお父さんは彼女をワシントンへ連れ戻し、首尾よく社交界にデビューさせた上で、ピッツバーグの大金持ちの跡取息子と婚約までさせてしまいますが、リアーヌをあきらめきれないナタリーは、今度はホイッスラーに絵を習いたいと言うお母さんのお供として、パリに戻り、リアーヌへの求愛を試みます。毎日のように大量に送られてくる花束と熱烈なラブレターを見て、リアーヌの方では当然警戒します。この花束の贈り主はどんな女だろうか?「大きな足をしたドイツ女かもしれない。それともセンチメンタルな、太ったスイス女だろうか?」ところがリアーヌの目の前に現れたアメリカ人女性は、端正な顔立ちとすらりとした肢体、それに「月光」に喩えられた美しい金髪の持ち主でした。しかもこのうら若き美女はお小姓のいでたちで現れて、馬車から降りようとするリアーヌの足もとにひざまずいて愛を乞うのです。何という光景でしょう!