魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(抄訳)ボードレール「エドガー・ポーに関する新しい覚え書(Notes nouvelles sur Edgar Poe)」(1/3)

ルイージ・ムッシーニ「スパルタ教育」。主人から過度の飲酒を強いられて、酔い潰れるスパルタ奴隷(ヘロイタイ)を描いた。ウィキメディア・コモンズより。

純粋詩(poésie pure) 」という言葉を最初に使ったのは誰なのか、私は知らないのですが、これを厳密な意味で、明確に定義可能な言葉として用いたのは、やはりボードレールが最初ではないかと思います。以下はボードレールの仏訳によるエドガー・アラン・ポーの二冊目の短編集『続・異常な物語(Nouvelles Histoires extraordinaires, 1857)』に附せられた序文の一部を日本語に訳したもので、これをお読みになれば、ボードレールと、彼に続く19世紀フランスのいわゆる「象徴派詩人」たちが、いかなる理想を胸に立ち上がったのか、今の日本の若い読者にもわかっていただけるのではないでしょうか。三回に分けて訳出します。原文はこちら


デカダンスの文学!――「古典美学」の聖なる門を守護する者ども、すなわち謎かけができるほどの知能もないスフィンクスどもの口から発せられるところの、大げさな欠伸あくびの叫びとともにしばしば聴こえてくる無意味な言葉だ。このような有難い神託を耳にするたびに、人は「この作品は『イリアス』よりも面白いのだ」と確信できる。なぜなら、ここで問題とされている詩もしくは小説は、必ずや、そのすべての部分が驚愕に向かって巧みに配置され、その文体は絢爛と装飾され、その言語と韻律の諸資源リソースの一切は、完璧な手腕によって活用されているに違いないからだ。このような寝言を聞かされるたびに――それは通常、わがお気に入りの詩人に対して、時折浴びせられるものなのだが――私はこう言い返したい衝動に駆られる。すなわち、「君たちは私を、君たちと同様の、物の値打ちがわからない人間バーバリアンだと思うのか?君たちは私が、君たちと同様に、退屈な詩や小説を有難がる人間だと、本当に思っているのか?」と。そうしてあるグロテスクな比較がわが脳髄にちらつく。二人の女が目の前にいるような気がするのだ。一人は田舎のおばさんで、ぞっとするほど健康で道徳的で、およそ見た目に気を使わない――要するに、素朴な自然以外、何もない女である。もう一人は、記憶を支配し、回想を圧迫する、そんな美女たちのうちの一人で――その独特の美貌を凝ったメイクでみずから飾り立てる、みずからの歩みの女主人メトレス、自意識家にして自分自身の女王――楽音のごとき美声であり、物思いに満ちた、みずからの願望のみを示さんとする眼光そのものである女だ。私がどちらを採るかは言うまでもない。にもかかわらず、何匹かの説教好きなスフィンクスは、古典に敬意を払わないと言って私を非難するのである。――とはいえ、たとばなしはさておいて、私としては、これらの博学な方々に対して、あなた方の博学はまったく空しく、まったく何の役にも立たないのだということを、ちゃんと理解しているのかと問いたい。デカダンスの文学という言葉は、文学に、おぎゃあと泣く段階、幼年期の段階、思春期の段階等々といった、段階というものが存在することを前提としている。この言葉は、私としては、たとえば人が免れることのできない天命のごとき、宿命あるいは神意による何物かを仮定していると言いたい。そうしてわれわれがこの神秘の掟を成就することを非難するのははなはだしい過ちだ。アカデミックな論調は、私に理解できる限りでは、この掟に従うことは恥であり、われわれは運命を甘受することで罪を犯すと説く。――太陽は、ほんの数時間前までは、その白色光線によって一切を圧倒していたが、やがて西の水平線をさまざまな色の光で水浸みずびたしにするだろう。この日没というドラマのうちに、詩人の精神は新たなるよろこびを見出す。彼らはそこに、目もくら列柱コロネードを、融解した金属による階段状の滝カスケードを、炎の楽園を、哀愁の光芒を、惜別の快感を、あらゆる夢の魔法を、あらゆる阿片の追憶を発見するだろう。日没は、彼らの目には、膨大な量の思想や夢とともに水平線の彼方へと消えてゆく、生命力に満ちみちた一つの魂の驚くべき寓意画アレゴリーとも映るであろう。
しかしながら、審判者たる大学教授たちの想定外だったのは、彼らの学童レベルの判断力には、まったく思いも寄らないような錯綜、もしくは結合が、この世の有為転変ういてんぺんにおいては生じ得るという事実だった。すなわち、一つの国家が誕生とともに退廃期デカダンスを迎え、他の国家が終わったところから始まるというような、およそ多様な形態を取って増殖するかも知れない現象における場合、彼らの非力ひりき語彙ごいは、これを表現しようにも、まるで不足していることがわかったのである。
現世紀における広大な植民地のうちに、新しい文学が創造されるとすれば、学者たちの頭を錯乱させるような心霊的アクシデントが発生しても、何ら不思議ではない。若くして同時に年老いてもいるアメリカは、驚くべき冗舌をもって、無駄口を叩き、たわごとを言う。アメリカに詩人は何人いるか?数え切れない。「青鞜ブルー・ストッキング」はいるか?雑誌を埋め尽くしている。批評家はいるのか?言うまでもなく、アメリカにはわが国フランスと同様、善良な衒学者ペダントたちがごまんといて、美術家たちに対しては常に古代の美を説き、詩人たちや小説家たちに対しては、その目的とすべき倫理性モラリテや、その創作の意図の上品さクオリテについて、絶えず注文を付けている。そこにはフランス以上に数多くの文字を知らない物書きがいて、幼稚な、無用の活動があって、孫引き専門家、二番煎じの専門家、盗作の盗作者や批評の批評家がうようよいるのである。このような凡人の沸騰バブルの中に、このように物質的進歩に夢中な人々の中に――これぞ無為無能なる国民の天下無敵性グランドールを示す新手あらてのスキャンダルとでも呼ぶべきであろうか――このように驚異に飢えた社会、人生が大好きで、とりわけ興奮に満ちた人生が大好きな社会の中に、一人の偉人が現れて、彼はただ単にその形而上学的精妙において、その思想の厳格にして心を奪う美しさにおいて、その分析力の強壮において、偉大であったのみならず、物真似芸人カリカチュールとしても偉大なのだった。――ここは少しばかり丁寧に説明しておかなければなるまい。というのは最近、ある軽率な批評家が、この私自身がエドガー・ポーに対するほとんど讃辞の一種として用いた大道芸人ジョングルール*1という同じ言葉を、この高貴な詩人の品位をおとしめ、わが讃嘆の真摯さを台無しにするために用いたからである。
物質に飢えた一つの世界の中心部から、ポーは夢へと身を投じた。アメリカの空気に窒息しながら、彼は『ユリイカ』の序文に書いた。いわく「私は夢みる人々に、夢のみを唯一の現実と信じる人々に、この書を捧げます」と。これは彼なりの立派な抗議だった。「モノスとウナの対話」*2において、民主主義だの進歩だの文明だのに対するもない侮蔑と嫌悪を吐露した人物は、自国の間抜けどもを連れ去り、野次馬どもを熱狂させるために、もっとも熱烈に人類の尊厳を讃え、現代人のうぬぼれに対してきわめて有効なデマ報道*3を、もっとも巧妙にでっち上げたのと同じ人物であった。こうした観点から見ると、ポーは私の目には、あべこべに御主人様を酔わせて赤面せしめんとするスパルタ奴隷ヘロイタイのように見える。結論として、私の考えをより明確に断言するなら、ポーはその高邁な思想においてのみならず、ジョーカーとしても、常に偉大であった。

*1:訳者注:ボードレールの仏訳によるエドガー・アラン・ポーの最初の短編集『異常な物語(Histoires extraordinaires, 1856)』の序文「エドガー・ポー、その生涯と作品(Edgar Poe, sa vie et ses œuvres)」の中で、ボードレール自身が使った言葉。

*2:訳者注:ポーが遺したプラトン風の対話篇の一つ。拙訳をご参照ください。

*3:訳者注:エドガー・アラン・ポーの短編「軽気球虚報」(1844年)。

(日本語訳)ボードレール「不遇(Le Guignon)」

フランツ・フォン・シュトゥック「シシュフォス(=シジフ)」ウィキメディア・コモンズより。

こんな重荷を持ち上げるには
シジフよ 君の心臓が要る
理想めざして精進しょうじんすれど
芸術は長く は短い

ほまれある偉人の墓地を遠ざかり
荒れ果てた 名もなき者の墓場へと
わが胸は 布にくるんだ大太鼓おおだいこ
葬送曲を打ち鳴らしゆく

封印の解けぬ秘宝の数々は
鶴嘴つるはしも 測深器具も届かない
地下の深みに 埋もれて眠る

人知れず咲いた妖花の数々は
荒涼を極めた土地に 秘めごとを
もらすがごとく かおりを放つ


*『悪の華』11。原文はこちら

(抄訳)エドガー・アラン・ポー「詩の原理(The Poetic Principle)」(4/4)

アーサー・ヒューズ「サー・ガラハッド」。テニスンの詩「聖杯(The Holy Grail)」に基づく油絵。ウィキメディア・コモンズより。

アルフレッド・テニスン

アルフレッド・テニスンの作品からは、私は彼をこの世に生まれたもっとも高貴な詩人であると、心から見なしているにもかかわらず、今はごく短いサンプルをご紹介する時間しか残されておりません。私が彼をもっとも高貴な詩人と呼び、またそう考えるのは、彼の産み出す印象が常にもっとも深刻であるからではなく――彼が引き起こす詩的興奮が常にもっとも激越であるからでもなくて――それが常にもっとも非世俗的で、言い換えれば、もっとも高揚感に満ち、もっとも純粋だからであります。彼ほど通俗からかけ離れた詩人はいません。私がこれから読もうとするのは、彼の最新長編詩『王女プリンセス』に挿入された一篇です。

涙よ わけもない涙よ…

結び

以上、はなはだ粗略かつ不完全ではございますが、「詩の原理」に関する私の考えを、皆さんにお伝えしようと努めてまいりました。私が申し上げたかったのは、この「原理」は厳密かつシンプルに申せば、天上の美に対する人間のあこがれに端を発するものである一方、その地上的顕現マニフェステーションは、常に魂の高揚感をともなう興奮のうちに見出だされるのであって、それは心情の陶酔であるところの情熱とも、理性の満足であるところの真実ともまったく無関係なのだということです。情熱について申せば、悲しいかな、情熱は魂を高揚させるどころか、かえってこれの品位を下落させる傾向があるのであります。これに対して恋愛――真正にして神聖なるエロス――すなわちディオネのヴィーナスとは截然せつぜんと区別されるところのウラニアのヴィーナス――これこそはあらゆる詩的テーマのうちで、もっとも純粋にして真実なものに間違いありません。そして真実について言えば、もし真実に到達することで、われわれがそれまで気づかなかった調和ハーモニーに気づくなら、われわれはそこから直接、詩的効果を体験するでありましょう。とはいえこの効果は調和ハーモニーにのみ由来するものであり、単にこの調和ハーモニー闡明せんめいする上で役に立っただけの真実とは、何の関係もありません。
しかしながら、われわれは詩人のうちに詩的効果を引き起こすいくつかのシンプルな要素エレメントに言及するだけで、真のとは何かという明確な概念に、より直接に到達することができるでしょう。詩人は空に輝く天体から、渦巻き状の花から、群生する低木から、風にゆれる穀物畑から、東洋の樹木の屈曲から、青くかすむはるかな山並みから、群れ集う雲から、なかば隠れた小川のきらめきから、滔々と流れる大河の輝きから、人里離れた湖のやすらぎから、その水面に星影を宿す寂しい井戸の深みから、自身の詩魂を養う神的栄養アンブロジアの認識を得ます。彼は鳥のさえずりに、風神アイオロスの竪琴に、夜風の音に、森のざわめきに、打ち寄せる波の音に、新緑のかおりに、菫の花のかおりに、ヒアシンスの肉感的なかおりに――そしてまた、たそがれどき、果てしない海を越えて、はるかなる未知の島々から彼を訪れる不思議なかおりのうちに、を感じます。彼はあらゆる高貴な思想に、あらゆる非世俗的な動機に、あらゆる聖なる衝動に、あらゆる騎士道的な、無私無欲の、自己犠牲的な行為のうちに、を感じます。彼は女性の美に、その優雅な足取りに、その目の輝きに、その美声に、その優しい笑い声やその溜息に、その上着ローブきぬずれの音に、を感じます。彼は女性の愛情表現に、その熱狂に、そのいつくしみに、その健気けなげで献身的な忍耐に、を感じます。そして何よりも女性のの誠実、純粋、力強さ、またその聖なる荘厳そうごんに、彼はを深く感じ、これに跪座礼拝きざらいはいするものであります。
もう一篇だけ短い詩を読んでおしまいにしたいと思いますが、これはこれまでご紹介した詩とはまったく趣きをことにするもので、マザーウェルの「騎士の歌(The Song of the Cavalier)」と申すものです。戦争は不信心であるとか馬鹿げているとかいった当世風の、とはいえ理にかなった考え方は、ここではしばらかないと、われわれはこの詩に共感し、この詩の素晴らしさを理解する上で、適切な状態にあるとは言えません。これを充分に鑑賞するには、われわれは心の中で、いにしえの騎士の魂に、みずからを一致合体アイデンティファイさせなければなりません。

馬に乗れ 馬にまたがれ すべての勇敢な騎士たちよ
 そして急いでかぶとを着けよ
「死」の使いなる「名誉」と「栄光」とが
 われらをふたたび戦場へと呼んでいる
その剣のつかに手をかけたなら
 もはや目に涙は浮かぶまい
われらは潔く出陣する わが国一の美女に対する
 一切の未練を断ち切って
愚痴を言う優男 弱音を吐く人間は
 泣くがいい 泣き虫は泣くがいい
われらの務めは男らしく戦い
 英雄らしく死ぬことだ!

 

(抄訳)エドガー・アラン・ポー「詩の原理(The Poetic Principle)」(3/4)

ドラクロワ「オフィーリアの死」ウィキメディア・コモンズより。

トマス・ムーア

トマス・ムーアには空想力ファンシーはあるが、想像力イマジネーションがない、などと評するのが近年の習わしです。この区分はコールリッジが言い出したものですが、実を申せば、コールリッジほど、ムーアの偉大な力量を知り尽くした者はいないのであります。事実はこうです。ムーアの空想力ファンシーは、彼の他のすべての能力を上回ると同時に、他のすべての詩人の空想力ファンシーをも上回っていた。ために彼は空想力ファンシーだけの詩人と見なされた。しかしこれほど大きな誤解はなく、これほど真の詩人の名誉をはなはだしく損なう評はありません。およそ英語で書かれた詩のうちで、このトマス・ムーアの「今あの暗い湖のほとりにいられればよかったのに(I would I were by that dim lake)」で始まる詩ほど、奥が深くて、最良の意味で想像力に富んだ詩を、私は他に知りません。その詩を暗唱していないことを、私は残念に思います。

トマス・フッドの詩

現代におけるもっとも高貴な詩人の一人――そして空想力ファンシーについて言うなら、奇妙なほど空想力ファンシーに恵まれた詩人の一人――それはトマス・フッドでした。彼の「麗しのアイネス(Fair Ines)」は、私にはいつも言い知れぬ魅力があったものです。

君たちは麗しのアイネスを知っているか
 彼女は西へと旅立った
日が沈んだ後も 光を放つことで
 万人の眠りを奪うために
彼女は持ち去った 太陽の輝きを
 僕らが一番好きだった笑顔を
その頬を染めたあけぼのの紅い色とともに
 その胸を飾った真珠のきらめきとともに

帰っておいで 麗しのアイネスよ
 夜が来ないうちに
月ばかりが光り輝き
 星ばかりがまたたく夜が来ないうちに
何という幸せ者だろう
 星空の下を君と歩いて
僕がいま書きあらわせないほど尊い
 愛の誓いを君にささやく男は

麗しのアイネスよ もしもこの僕が
 君とならんで馬を駆って
君のかたわらに寄り添って愛をささやく
 あの姿優しい騎士であったならば!
もしもこの地に一人の美女もおらず
 一人の純情な男もいなければ
あの男はわざわざ海を渡って
 僕らのアイドルを奪いには来なかったであろうに

麗しのアイネスよ 僕は君が
 海岸に沿って歩くのを見た
いくつもの旗が振られるうしろを
 ぞろぞろついていく貴人たちとともに
しとやかな少年たちや はしゃぐ少女たちは
 真っ白な羽根飾りを着けていた
それはそれだけで終わっていたならば
 美しい夢に過ぎなかっただろうに

ああ 麗しのアイネスよ
 彼女は行ってしまった 歌とともに
彼女の足取りを軽やかにする音楽とともに
 群衆の歓呼の声とともに
だが中には悲しくてたまらない者もいたのだ
 彼らは音楽の悪だけを感じた
彼らの耳には それは長年恋したひと
 さよなら さよならと歌っているように聴こえた

さよなら さよなら 麗しのアイネスよ
 あの船は かつて一度も
あのように美しいひとを甲板に乗せたことはなく
 小躍りするように船出したこともない
今よろこびは海上にあり
 港には悲しみがある
一人の男を幸せ者にしたその笑顔は
 何と多くの男の胸を引き裂いたことか!

同じ作者による「幽霊屋敷(The Haunted House)」という詩は、これまでに書かれた詩のうちでもっとも真実な詩――テーマにおいても実作においても、もっとも真実で、もっとも完璧で、徹頭徹尾もっとも芸術的な詩のうちの一つです。あまつさえ、きわめて非世俗的で、想像性に富んでおります。残念ながら、その詩は今ご紹介するには長すぎるので、その代わりとして、人口に膾炙かいしゃしている「溜息橋(The Bridge of Sighs)」の方を、ここで朗読したいと思います。

また一人 幸薄き者が…

この詩の力強さは、その悲壮感ペーソスと同様に素晴らしい。韻律構成ヴァーシフィケイションは、奇想をして怪談ぎりぎりにまで激化せしめながらも、この詩のテーマであるところの自殺者の狂気と、見事に合致しております。

(抄訳)エドガー・アラン・ポー「詩の原理(The Poetic Principle)」(2/4)

トマス・ムーア著『アイリッシュ・メロディ』。トマス・ムーアは19世紀アイルランドの詩人。ウィキメディア・コモンズより。

「教訓詩」の邪説

叙事詩狂エピック・マニア、すなわち価値のある詩は長くなければならないという考え方は、すでに申し上げた通り、それ自体が矛盾をはらんでいるところから、ここ数年のうちに、巷間における勢いを失ってきたかのごとくですが、これと入れ替わるかたちで、長く許容されるにはあまりにも馬鹿々々しい邪説が現れて、これがすでに経過した短期間のうちに、他の天敵がことごとく一丸となった以上の魔力をもって、わが国の詩壇を破壊してしまいました。私は教訓詩の邪説のことを申すのであります。すべてのの究極の目的は真実であるとの説が、かげ日向ひなたに、直接あるいは間接に、当然のごとく主張されております。いわく、あらゆる詩はすべからく社会倫理に寄与するものでなければならず、この倫理性が、詩を判断する上での基準となるのだ。われわれアメリカ人はこのおめでたい説にとりわけ肩入れしており、分けてもわれわれボストン人は、これを最大限に流布させた、まさに張本人です。われわれの頭脳はこのような偏見にあまりにも汚染されてしまったので、詩を書くのはもっぱら詩のためであり、それのみがわれわれの意図するところなのだと認めることは、あたかも真の詩人としての品位も力量もまったく持ち合わせておりませんと告白するかのごとくであります。だが事実は違います。もしわれわれが虚心坦懐にみずからの魂を顧みるならば、本来のそのもの、以外の何ものでもない、もっぱらのためにだけ書かれた以上に品位ある、気高い詩などこの世には存在しないし、存在するわけもないことが直ちに了解されるのであります。

「天上の美」の探求

なるものについて、私はこれを万人に劣らず深く尊重しながらも、これを広める様態モードをある程度にまで制限いたしましょう。私はこれを強化するために制限するのであって、乱用によって減衰させたくないのです。「真実」の要求には厳格シビアなものがあります。「真実」は快楽に対して何の親和性シンパシーもありません。「ソング」において必要なもののすべては、まさに「真実」のあずかり知らぬものばかりです。「真実」を花や宝石で飾り立てることは、「真実」を見苦しいさらし者とするだけです。「真実」を述べるにあたって、われわれに求められるのは、美しい言葉ではなくて、厳密な用語です。われわれは単純で、正確で、簡潔でなければなりません。冷静で、沈着で、無感情でなければなりません。一言いちごんにして申せば、可能な限り、詩的状態ムードとは正反対状態ムードになければならないのです。この真なるものの教化と、詩的なものの感化との間の極端な、断絶的な差異が認識できない人はいないでしょう。このような差異にもかかわらず、この「詩」「真実」という、水と油とを混ぜ合わせるような行為を試みる人は、度し難い空想家だと私は思います。
精神の世界を、截然せつぜんと区別できる三つの領域に分けるとすれば、それは「純粋知性」「美意識テイスト」「倫理観」となります。「美意識テイスト」が中央に来るのは。これが精神の世界において、まさに中央に位置しているからであります。「美意識テイスト」は「純粋知性」とも「倫理観」とも密接な関係を有しております。特に「倫理観」との区分はあいまいなので、ためにアリストテレスは「美意識テイスト」の作用のうちのいくつかを、美徳のうちに数えるのに躊躇ちゅうちょしなかったほどであります。とはいえ、この三人組トリオの仕事にはそれぞれ明確な区別があります。すなわち「知性」は「真理」にかかわり、「美意識テイスト」は「美」をわれわれに告げ、「倫理観」はわれわれに「義務」を教えます。「徳」について言えば、「良心」は恩義を、「理性」は便宜を、それぞれ説くのに対して、「美意識テイスト」は「徳行」の美的側面をわれわれに提示します。「美意識テイスト」が「悪徳」に対して戦いを挑むのは、もっぱらそのフィット感、適切性、調和性――ひと言で言えば「美」――と対立する違和感、不釣り合い、不整合のゆえであります。
われわれの精神のうちに深くひそんでいる不死の魂の本性が、この美意識テイストであることは自ずと明らかです。美意識テイストは人を取り巻くさまざまな形態や、音響や、香気や、情緒センチメントを通して、人によろこびを与えます。そして湖水に映る白百合のごとく、あるいは鏡に映るアマリリスのごとく、単なる話し言葉や書き言葉によるこれらの形態や、音響や、色彩や、香気や、情緒センチメントの再現再生もまた、よろこびの二重化された源には違いありません。とはいえ単なる再現「詩」ではありません。ただ単に歌をうたう者――それはいかなる熱狂をもって、いかに真に迫った描写力をもって、誰にでもひとしく魅力的な景色や、音や、香りや、色や、情緒センチメントといったものを歌い上げようとも――ただ単に歌うだけでは、彼はまだ「詩人」という神聖なる称号には値しないのであります。そこには彼がまだ到達することのできていない何ものかが、はるかかなたに存在します。われわれはいまだ癒やしがたい渇きを抱えており、彼はまだこれを癒やすべき泉を提示してくれてはおりませぬ。この渇きは人間の不死性に属するものです。これこそ人間の不死の命の帰結であり、指標なのです。それは星影にあこがれる蛾の欲望であります。それはただ単にわれわれの目の前にある美の知覚ではなくして、天上の美に達せんとする狂おしい悪足掻わるあがきなのであります。死後の世界の栄光を、エクスタシーとともに予見しながら、われわれは時間の中にあるもろもろの事物や思想のさまざまな組み合わせによって、その構成要素エレメントはまさに永遠にのみ属するがごときの一端に到達せんとして、悪戦苦闘するのであります。そうしてによって、あるいはもっとも恍惚たる詩的状態ムードであるところの音楽によって、われわれが不覚の涙を流す時、それは決してグラヴィナ先生が言うように「よろこびの過剰」からではなくて*1、われわれが、あるいは音楽を通して、束の間の、不確かな一瞥いちべつにしか達し得ないあの聖なるエクスタシーを、この下界においては、直ちにわがものとすることができないばかりか、永遠に手に入れることができない、そのたまらないれったさから、われわれは涙を流すのであります。この天上の美を捕えようとする戦いは、それにふさわしく熟練した魂たちの戦いですが、この戦いが、世界に対して、万人が直ちに詩的であると感じ、理解するすべてのものを提供してきたのです。

「詩」は韻律による「美」の創造

詩的情緒センチメントと申すものは、言うまでもなく、さまざまな様態モードを取ることができます。絵画や、彫刻や、建築や、舞踊や――とりわけ音楽ですが、視野を広げれば、きわめて特異な例として、造園術にもそれは展開され得ます。とはいえわれわれの目下のテーマは、もっぱらこれの言葉による実現マニフェステーションですね。ここでひと言だけ、韻律リズムについて述べさせて下さい。歩格ミーターや、韻律リズムや、脚韻ライムなど、さまざまな様態モードをまとった音楽は、詩において、これをしりぞけることは無謀と思われるほど重要だと確信するこの私――これが死活に関わるほど重要な装飾であるがゆえに、これの助力を仰がない詩人は駄目だと確信するこの私は、詩には音楽性が絶対に必要不可欠だと、ためらうことなく主張します。詩的情緒センチメントに触発された魂が、天上の美の創造という偉大なゴールにもっとも近づくのは、おそらく音楽を通じてだからです。この荘厳なるゴールは、時として、本当に達成されることがあります。われわれはしばしば、下界の竪琴から発せられる天界の調べに、感激をもって聴き入るのです。このように、普通の意味での詩と音楽との融合のうちに、詩の発展のもっとも広大な領域が見出されるであろうことは、疑いの余地がありません。昔の吟遊詩人バードたちや騎士歌人ミンネジンガーたちは、今のわれわれが持ち合わせていない強みを持っていたわけです。とはいえ現代においても、たとえばトマス・ムーアは、自作の詩を歌謡化することによって、もっとも正統的な方法で詩を完成させております。
まとめと致しまして、私は詩というものを、簡潔に、韻律リズムによる美の創造と定義したいと思います。その唯一の審判者は美意識テイストです。知性とも良心とも付随的な関係しか持っておりません。何か偶発的な事情がない限り、義務とも真実とも、一切関係がありません。

「詩」の本分は「美」

ここで少し補足します。もっとも純粋で、もっとも高揚的で、もっとも激越な詩的快感は、美しいものを静かに思うことからじかに得られます。美の観照によってのみ、われわれは詩的情緒センチメントとはっきり感得できるところのあの魂の快い興奮、もしくは高揚感に達することができるので、それは理性の満足であるところの真実や、心情の興奮であるところの情熱とは本質的に異なるものです。それゆえ私はを――ここでは「荘厳なるもの」をも含めてと呼びます――私はこのというものを詩の本分と致します。これは原因と結果エフェクトとは可能な限り直結していなければならないという、芸術の自明な掟に従ったまでで、なぜならくだんの特異な高揚感が、少なくとももっとも容易に達成されるのはによってであり、さすがにこれを否定するほど愚かな者はいまだ世に現れてはいないからであります。だからといって、情熱の鼓舞や、義務の戒めや、真実の教訓さえも、詩のうちに導入して何の益もないと言うのではない。それらは時と場合によっては、さまざまな面から、の主たる目的に貢献してくれるかも知れないからです。とはいえ真の芸術家は、詩の雰囲気であり、詩の本当の精髄エッセンスであるところのに対して適切に従属するよう、これらをいつも巧みにトーンダウンさせるものなのです。

*1:ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・グラヴィナ『詩的理性について』第一巻。