魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(日本語訳)ボードレール「腐肉(Une Charogne)」

はなぶさ一蝶作と伝わる九相図のうちの一つで、鳥獣に食い荒らされる小野小町の腐乱死体。ウィキメディア・コモンズより。

さわやかな夏の明け方 二人して
目にしたものを覚えているかい
脇道を曲がったところ 散り敷いた小石の上の
腐乱死体を

ふしだらな女のごとく 毒汁どくじゅう
汗と流れる足をひろげて
毒ガスでふくれた腹を平然と あざけるように
見せびらかして

太陽は照りつけていた この物体を
徹底的に料理しようと
偉大なる「自然」が組んだ一体を 百倍にして
返そうとして

晴天そらのもと さらけ出された満開の
花さながらの美々びびしい死体
悪臭は強烈すぎて 草むらに君はあやうく
ぶっ倒れかけた

蠅はその腐った腹の
上を飛び ぶんぶんうな
幼虫の真っ黒な群れ 生きている襤褸ぼろをつたって
どろどろ流れ

一切は寄せては返す波のよう
ぱちぱちぜて 光るを見れば
これはまだ息をしており 生きており 増殖中と
人は言うかも

そしてこの世界の音はミュージック
流れる水や吹く風のよう
それはまたリズムに乗ってふるわれる脱穀機中の
麦粒のよう

クラヴディー・レベデフ(Klavdy Vasiliyevich Lebedev)「脱穀場」。ウィキメディア・コモンズより。

姿かたちは失われ 今はもう
ただのまぼろし――画家が画面に
不確かな記憶をもとに描いていた 描き上がらない
ただの下描き

岩陰に身をひそめつつ 雌犬が
怖い目をしてこちらをにらみ
死体から 食べ切れなかった肉片を取り返そうと
うかがっていた

だが君も いつかはこんな亡骸なきがら
こんな汚物と化すことでしょう
わが目の星よ わが天性の太陽よ
わが天使 わが情熱よ

このようになることでしょう わが姫よ
弔いの儀式も終わり 咲く花と
草むらのかげに埋もれて 君がの遺骨とともに
朽ち果てるとき

そのときは お嬢さん 君の体を口づけで
むしばむ虫に言っておやりよ
「私の詩人が はかない愛の 尊いかたちと中身とを
守ってくれた」と


*『悪の華』初版27。原文はこちら

(日本語訳)アルフレッド・テニスン「ロータス・イーター(Lotus Eaters)」

アンドレア・アルチャート『エンブレマタ』(1621年版)より「蓮喰はすくびと」。ハーヴァード大学ホートン図書館蔵。ウィキメディア・コモンズより。

彼は皆を励ましながら 前方を指で示した
「この荒波で 船は速やかに陸に近づく」
午後 彼らはある島へと上陸したが
その島では二十四時間午後らしかった*1
海辺を取り巻いて 物憂い空気が気を失って
安からぬ眠りを眠る者のように呼吸していた
渓谷の上に満月が出ていた
そうして下降する白煙のごとく 細長い滝が流れて
崖を落ちては止まり 落ちては止まるように見えた

それは滝だらけの島で 下降する白煙のごとく
極めて薄いローンのヴェールをなして流れる滝もあれば
白い飛沫しぶきのシートを巻き転がしながら
ゆれる光と影の中を雪崩なだれ落ちてゆく滝もあった
彼らは奥地から輝く川があらわれ
海へと注ぐのを見た 解けない雪の積もった
三つの山の頂き 沈黙の三高峰が
夕陽を浴びていた そうして錯綜した雑木林の上に
常緑の松樹が 時雨しぐれに濡れた葉を茂らせていた

真っ赤な西空にしぞらに 謎めいた日が傾いて
沈むのをためらっていた 山のおびただしい裂け目は
沢となり 椰子の木に囲まれた金色こんじきの草むらとなり
またはすらりとした蚊帳吊草ギャリンゲールの自生する曲がりくねった谷や
草地の数々となって 奥地まで続いていた
その島では時間が止まっているかに見えた
やがて船を取り巻くようにして 血の気のない顔色の
真っ赤な夕陽に照らされて顔面蒼白の
優しい目をした 悲しげな蓮喰い人ロータス・イーターたちがやってきた

この者たちは花や果実をたわわにつけた
ロータスの枝をたずさえ 彼らはそれを優しく
一人一人に捧げたが これをもらって
ひと口吟味した人間という人間にとって
打ち寄せる波の音は どこか遠いよその国の海辺に
打ち寄せるもののごとく 友の発する声は
故人の声のように 縹渺ひょうびょうと耳に響いた
そうして彼は気を失ったかに見えて気は確かで
みずからの心音が彼の耳には音楽だった

夕陽と月とに挟まれた不思議な海辺で
彼らは金色こんじきの砂の上にならんで腰を下ろした
そうして望郷の念は切なく
妻子や奴隷たちへの未練は断ちがたかったが
もう海に出る勇気も オールを操る元気もなくて
これ以上いたずらに漂流するのはまっぴらだった
やがて一人が言った「俺たちはここで暮らそう」
すると皆が一斉に歌った「俺たちの帰郷は
絶望的な難事業だ それよりもここで暮らそう」

*1843年版『詩集』による。ただし後半の「合唱歌(Choric Song)」は割愛。原文はこちら

*1:シャルル・ボードレールの「旅(Le Voyage)」(『悪の華』第二版126)第七章に、

「聞くがいい あの世から聞こえるような 美しい
 あの歌声を『いい匂いのするロータスの実を
 食べたいひとはおいで あなたの心の飢えを癒やす
 奇跡の果実を摘むのはここよ  
 永遠に打ち続くこの午後の時間の
 奇妙な甘美さに 来て酔い痴れなさい』」云々。

(日本語訳)ボードレール「嘘に恋して(L'Amour du mensonge)」

ロレンツォ・リッピ「変幻する多産な女性の寓意画」。ウィキメディア・コモンズより。

物憂げなわが恋人よ 時として俺は見るのだ
満場に反響を生む楽団の演奏につれ
ゆるやかなリズムとともに踏んでいたステップをやめ
倦怠アンニュイの遠い目をして 行き過ぎる君の姿を

時として俺は見るのだ ガス灯の青い光が
青ざめた君のひたいを 病的な魅力によって
飾るとき 夜のあかりが蒼雲しののめを照らす風情を
また俺は絵画のような君の目をじっと見ながら

ひとり言う「何たるひとだ 美人だが 妙に悲しい
壮麗で重い記憶は 王宮の塔さながらに
このひとの頭上を飾り 傷ついた桃の心は
肉体とともに 巧者な恋により 色づいている」

恋人よ 君は甘くて毒のある秋の木の実か
心ある者の涙を待ち受ける水瓶みずがめですか
彼岸なるかの楽園を思わせる香水ですか
ご遺体を寝かす枕か 棺を満たす花々か

知っている 実は大した秘密など何もないのに
この胸がえぐられるほど悲しげな目があることを
空っぽの宝石箱よ 銘のないメダリオン
おお天よ 御身おんみにまして何もなく 深い空間

だがおよそ真実などに興味ない者にとっては
対象はうわつらさえ美貌ならそれでよろしい
本質が馬鹿で勝手で無情でも問題はない
仮面でも虚飾でもいい 君は綺麗だ だから好きだ


*『悪の華』第二版98.原文はこちら

ルキアノスと「麗しの売春婦」

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アンゲリカ・カウフマン「プリュネにキューピッド像をプレゼントするプラクシテレス」。ウィキメディア・コモンズより。

「あなたは自分の情婦を聖域に安置させた。この栄誉を私のために惜しみ給うな。人々は私の姿を見、あなたの名を讃えるのです」――アルキプロン『遊女の手紙』より「プリュネからプラクシテレスへ」

「私はあらゆる種類の売春婦たちを見た…」

先日、エドガー・アラン・ポーの「群衆の人(The Man of the Crowd)」という短編を訳していて、以下の一節に出会いました。

また私はあらゆる種類、あらゆる年代の売春婦たち(women of the town)を見た。私はまだ若くて本当に美しい売春婦を見て、その姿は見る者の心にルキアノスの文に出てくる、表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物フィルスが詰まっていたという彫像のことを想わせた。

これは語り手が19世紀のロンドンのカフェの窓から雑踏を眺めているシーンで、彼女たちは通りを行き交う人たちに対して客引きをしているので「街娼」ということになります。「街娼」は古い日本語ですが、今の日本では何と言うのでしょうか。

ルキアノスの「にわとり」

この「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」(たぶん女神像)という言葉が出てくるルキアノスの作品をチェックしておこうと思いました。トマス・マボットの注によれば、この文言はルキアノスの「夢またはにわとり」という文章の第24節にあるとのことで、さっそく当たったみましたが、いささか手間取りました。言葉通りの表現がどこにもないのです。
まずこのルキアノスの「にわとり」の内容をご紹介します。これはプラトン風の対話篇で、ただ登場人物は哲学者ではなく、ミキュロスという靴直しの職人と、彼が飼っている一羽のにわとりです。このにわとり君、ただ単に人語をくするだけでなく、前世ではピタゴラスだったこともある、と言う。ピタゴラスが輪廻転生説を支持したことは周知の通りです。で、この偉大な哲学者の生まれ変わりであるところのにわとり君は、ついさっきまで大金持ちになる夢を見ていたというミキュロスに対し、みずからが輪廻転生を繰り返す間に重ねた経験に基づいて、富や名誉がいかに空しいものであるかを説きさとす。そうした文脈の中で、彼(にわとり君)が人々からもっとも羨望さるべき国王の地位にあった頃の思い出話として、以下の一節が出てきます。

にわとり:私が治めていた国は広くて肥沃でした。わが国内のもろもろの都市は人口においても美しさにおいても世界に冠たるものでした。航行可能な河があり、立派な港がありました。わが陸軍は大軍で、わが槍兵は数知れず、わが騎兵隊は精鋭ぞろいでした。わが海軍も同様で、私はまた計り知れない富を蓄えていました。王者の威厳を示すいかなる小道具も欠けてはいませんでした。無数の黄金のプレートをはじめとして、あらゆる持ち物が贅を尽くしたものでした。私は自国民から最敬礼されることなしに宮殿を出ることが出来ず、彼らは私を神様だと思っていて、私が通り過ぎる姿をひと目見ようと押し合いへし合いするのでした。熱狂的な崇拝者たちのうちには、私の馬車や、衣装や、王冠や、従者たちのいかなる細部をも見逃すまいと、民家の屋根に登る者さえいる始末でした。
私は自国民のそのような愚かしさを大目に見てやることすら出来たのです。にもかかわらず、みずからの地位に関する苦悩と心痛とを思う時、私は自分が惨めで仕方がなかった。その頃の私はさながらペイディアスや、ミュロンや、プラクシテレスらの手に成る巨像のようなものでした。それらはすなわち三叉槍トライデントを持つポセイドンや、稲妻サンダーボルトを持つゼウスであって、全身が象牙と黄金とで出来ている。ところがちょいと内部なか を覗いてみると、そこにあるものはと言えばモルタル瀝青ピッチの付着した棒やら、ボルトやら、釘やら、板やら、くさびやら、その他あらゆる目も当てられぬもののごちゃ混ぜです。二十日鼠やドブネズミどものあり得べき植民地を別としてもね。それが王座というものです。(ルキアノス「にわとり」)*1

にわとり君、なかなかいいことを言う、と私は思いますね。そうして上の一節の後半部分をポー流に要約したのが「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という言い回しであるらしい。
しかしよく見ると、上の文章には「パロスの大理石(Parian marble)」という言葉がどこにも見当たりませんね。もう少し調べてみる必要があると思いました。

「クニドスのアプロディテ」

上の文章にはペイディアスとかミュロンとかプラクシテレスとかいった人名が出てきますが、これらはいずれも古代ギリシャ彫刻の巨匠たちの名です。これらの人たちが素材としてブロンズの他に大理石を用い、また大理石を用いる場合には、もっぱらロス島産の大理石を用いたことは、大プリニウスの『博物誌』で確認できました。ルキアノスの作品の中で「パロスの大理石」という言葉が出て来るものでは、次の一文が印象的です。

庭木の鑑賞を十分に楽しんだわれわれは、神殿のなかへ入っていった。女神は中央に鎮座している。パロスの大理石を使ったたいへん美しいその作品は、軽く笑った驕慢な表情を見せている。衣服は少しも纏っていず、その美しさが裸形のなかで露わになっているが、恥部だけは一方の手でそっと覆っていた。(偽ルキアノス異性愛少年愛」)*2

この文章はプラクシテレスの代表作「クニドスのアプロディテ」を描写したもので、オリジナルは現存しないが、後世の模造品がいろいろ残っているので、それらを通して面影を偲ぶことが出来るそうです。下は日本語版ウィキペディアに掲載されている画像で、「クニドスのアプロディテ」のローマ時代の模造品を、さらに後の時代になって復元させたものだとか。

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「クニドスのアプロディテ」ウィキメディア・コモンズより。

プリュネ(Phryne)に関する補足

ギリシャ高級娼婦ヘタイラプリュネについて、こちらの記事で触れた際には「フリュネ」と英語読みにしましたが、直すのが邪魔くさいのでそのままにしておきます。
さて、プラクシテレスは実はこのプリュネの常連客で、「クニドスのアプロディテ」は彼女がモデルだ、という説があります。出どころはどうもアテナイオスの『食卓の賢人たち』らしい。

彫刻家のプラクシテレスは彼女(プリュネ)を愛して、彼女をモデルにして、クニドスのアプロディテを作った。(『食卓の賢人たち』第13巻第591頁)*3

プリュネが霊感を与えたのはプラクシテレスだけではない。プリュネといえば、お祭りの最中に、何を思ったか、衆人環視の中でいきなりすっぽんぽんになって海に入っていった、という逸話が有名ですね。その際、海岸に殺到した野次馬どもの中には、プロの絵描きも混じっていた。

とはいえプリュネは本当に美しい女で、彼女の肉体のふだん人目にさらされることのない部分までもが美しいのだった。それゆえ彼女の裸体を見るのは容易ではなかった。なぜなら彼女はいつも全身をチュニックで覆っており、また決して公衆浴場を利用しなかったからである。にもかかわらず、ポセイドン月の祝日、エレシウスでの厳粛な祭事中に、大勢のギリシャ人が見ている前で、彼女は衣服を脱ぎ、髪をほどいて、波と戯れに海へと入っていった。こうしてアペレスは彼女をもとに「海から上がったアプロディテ(Aphrodite Anadyomene)」を描いた。(『食卓の賢人たち』第13巻第590頁)*4

これが今の日本だったら、どうでしょうか。きっとみんな「モバイル・フォン」片手に海岸へと押し寄せて、写真や動画をSNSに投稿しまくるんでしょうね。いや、その前に、公然わいせつの現行犯で逮捕されておしまいですね。いずれにせよ、殺風景な時代になったものです。

ルキアノスの「肖像」

ポーはこの「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という言い回しを使ってくだんの売春婦は外見は美しくとも、内面は悪徳まみれである」と言いたいのではないかと思います。まあ常識的に、もっぱら人道的観点から考えて、ただただ生活の必要のためだけに体を売っている女性に対して「悪徳まみれ」とは少し言い過ぎのような気もしますが、いわゆる「色恋営業」で客を引っかけ、これを骨までしゃぶり尽くしながら、自分は贅沢三昧で遊び暮らしているとなると、世間の風当たりも強くなるでしょう。事実アテナイオスは、上の高級娼婦ヘタイラプリュネについて、喜劇詩人ポセイディッポスの『エペソスの女たち』からの引用として、こんな台詞を紹介しております。

「一昔前、テスピアイのプリュネは、あらゆる遊女仲間の間で抜群に有名だった。あなたはまだ新米だけど、それでも彼女が裁判にかけられたことは知っているはず。彼女は民衆裁判所で、全市民を堕落させたとして、死に値する罪に問われた。けれど彼女は裁判員一人一人に対して涙ながらに命乞いをして、かろうじて刑を免れたのよ」(『食卓の賢人たち』第13巻第591頁)*5

なおプリュネが死刑を免れた経緯については、法廷で弁護人が彼女を素っ裸にしてみせたところ、その美しさに感激した裁判員たちが皆無罪に投票したからだという説もある。そのシーンを描いたのがこちらの記事でご紹介したジャン=レオン・ジェロームによる絵画です。
この女性の内面の美醜という点について、上に引用した「にわとり」よりもしっくりくる表現が、ルキアノスの「肖像」という作品の中にあります。簡単に内容を紹介しますと、これはリュキノスとポリュストラトスという二人の青年の対話篇で、まずリュキノスが「さっき街を歩いていて、通りすがりに、誰だか知らないが、目が覚めるほど美しい女性を見た」と切り出す。そこでポリュストラトスが「どんな女性だったか、教えてくれ」と言う。リュキノスは返答に窮し、過去の大彫刻家(プラクシテレス等)や大画家(アペレス等)や大詩人(ホメロス)たちの作品から「いいとこ取り」をしてこれらを寄せ集めることで、彼女の見目麗しさを説明しようとする。これに対してポリュストラトスは答える。

ポリュストラトス:だが、よき友よ、君はまるで稲妻がそばを走り過ぎたかのように一度彼女を見ただけであり、はっきりしたものだけを、つまり身体とその姿だけを、めているように見える。ところが、魂の美点の数々については君は見ていないし、彼女にあるそちらの美しさがどれほどのものか、身体よりもそれがどれだけはるかによく、神々しいものであるか、ということを君は知らないのだ。
しかし僕の方は、彼女の知り合いであるし、何度も言葉を交わしたことがある。同郷の人間なのでね。僕は、君も知っているように、なごやかさや、親切心や、心の大きさや、節度や、教養を、美しさよりも誉める人間なのだ。そういう性質のほうが、身体よりも優先されるべきだからね。衣服のほうを、身体よりも嘆賞するのは、不合理だし、滑稽でもある。
しかし、完璧な美とは、僕の思うに、魂の美徳と身体の見目麗しさとが出会っている場合だろう。間違いなく僕は、たくさんの女性が、見目はよいが、他の点ではその美をはずかめる人間で、一言口を開けばその花が衰え、枯れてしまう――正体が明かされて醜い姿をさらす、もともと悪い主人である魂と不相応に同居していたので――という例のあれこれを君に示すことができるだろう。
そしてこういう女性は、エジプトの神殿と似ているように思える。かの地の神殿そのものは、とても美しく壮大だ――高価な石材で造られ、黄金や絵画で華やかに飾られている。ところが、その内部で神を捜してみると、それは猿であったり、イビスであったり、山羊であったり、猫であったりする。そういうような女性をたくさん見ることができるのだ。(ルキアノス「肖像」)*6

この最後に出て来る異形の神をまつったエジプト神殿の比喩の方が、先の「にわとり」に出て来る巨匠らの手に成る巨像の比喩よりも、ポーの「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という警句の意味内容とよくマッチしているように思います。ちなみにポリュストラトスは、ここから始まって、くだんの女性が備えている「魂の美点」を以下のように数え上げる。

  • 声の美しさ。歌のうまさ。竪琴の弾き語りが巧みなこと。座談の妙手で、言葉の発音が正確で、滑舌がよいこと。古今の詩歌に通じていること。
  • 詩歌だけではなく、雄弁家、歴史家、哲学者の著作に親しみ、教養を積んでいること。思慮分別に富み、研ぎ澄まされた知性を持っていること。ここでは当時、知的女性の代表格と考えられていたアスパシア、ピタゴラスの妻テアノ、サッフォー、プラトンの『饗宴』に出て来るあのディオティマといった人たちの名がずらりと並ぶ。
  • 温厚な性格と弱者への思いやり。ここではアンテノルの妻テアノやホメロスの『オデュッセイア』に出て来る王妃アレテとナウシカ姫が引き合いに出される。
  • 伴侶への愛と貞操の堅固さ。オデュッセウスの妻ペネロペ、アブラダタスの妻パンテイア。
  • そうして最後に一番大事なこと、それは謙虚であることです。

ポリュストラトス:というのは、これほど勢威ある地位にありながら、彼女は、順境のゆえに傲り高ぶることもなく、自分の幸運をたのむあまり人間の分際を越えて尊大になることもない。むしろ、人びとと同じ地面に立ちながら、優美さに欠ける低俗な思い上がりを避け、訪ねてくる者に庶民的な、分け隔てのない態度で接する彼女であるし、暖かい心で示す歓待ぶりと善意は、より地位の高い人から表わされるのに勿体をつけていない分だけ、それにあずかる者にはいっそう喜ばしいのだ。自分の権力を、人を見下すことに用いるのではなく、むしろ逆に親切を施すことに使う人間は、運の女神から授けられた幸福にふさわしい人だと思われ、こういう人びとだけが、正当にも、世間のねたみを免れるのだ。(ルキアノス「肖像」)*7

こうして出来上がった女性像は、一点非の打ち所のない理想的な女性像です。ところが面白いことに、ここで賞めちぎられている女性もまた「売春婦」なのです。読んでいるうちにうすうす気が付くように書かれているのですが、彼女は当時ローマ皇帝の愛妾を務めていたパンテイアという高級娼婦ヘタイラ(上のアブラダタスの妻と同名)で、それゆえ幾ら相手が皇帝の愛人だからといって、一介の売春婦に対しておべんちゃらが過ぎるのではないか?といった批判もあるようですが、私にはとてもそんなケチな作品とは思えません。とにかく一人の女性の美しさを、これほど絢爛たる措辞をもって賞揚した文学作品を、不勉強な私は他に知らないからです。しかもなお面白いことに、この「肖像」という作品には続編*8があり、そこではこの「肖像」に対してパンテイア本人から「賞めすぎだ」とのクレームが来たという設定で、これに対して反省の弁を述べると見せかけて、これを逆手に取り、更にもう一段彼女を賞め上げてみせるという離れ業をやってのけております。驚くべき文才です。

まとめ

結論として、この「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という句は、学生時代、古代ギリシャ語(ルキアノスギリシャ語の作家です)の授業の際に読まされた上記のようなもろもろのルキアノスの作品がポーの頭の中でごっちゃになり、化学反応を起こした結果、生まれた言い回しではないかと考えられる。従ってルキアノスのものというより、ポー自身が発明した警句と言った方がいいかも知れません。ちなみにポーはこの警句がとても気に入っていたようで、他の書評やアフォリズムでも(全然違う文脈で)用いております。
最後に、「クニドスのアプロディテ」の模倣作の一つとして「メディチ家のヴィーナス」というのが有名ですが、これの画像はポーの「密会」という短編の日本語訳のページに掲載したので、ここではこれまた「クニドスのアプロディテ」に触発されたとおぼしき有名な絵を一枚貼っておきます。

ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」

ボッチチェリ「ヴィーナスの誕生」。ウィキメディア・コモンズより。

こうした画像を眺めていると、ポーが「正銘の美人(the unequivocal beauty)」と讃えた売春婦の面影が何となく目に浮かんでくるような気がいたしますが、いかがでしょうか。

bookwalker.jp

*1:プロジェクト・グーテンベルク版の英訳からの重訳。呉茂一教授の原典訳(『神々の対話―他六篇 (岩波文庫 赤 111-1)』所収)も一応参照はしました。

*2:ルキアノス選集 (叢書アレクサンドリア図書館)』(内田次信教授全訳)に拠る。なおこちらのサイトでは同じ訳文が全文無料で公開されています。ちなみにこの「異性愛少年愛」(原題「エローテス(さまざまな愛)」)という作品は、偽書の疑いのある作品ですが、英語版ウィキペディアによれば、偽書の疑いをかけられたのが20世紀の初めのことなので、ポーの時代にはまだルキアノスの真作だと信じられていた可能性があります。内田教授の訳は、私が読んだ限りでは、古代ギリシャ語作品の現代日本語訳としてもっとも流麗な訳文です。

*3:柳沼重剛訳『食卓の賢人たち〈5〉 (西洋古典叢書)』に拠る。

*4:この部分は英訳からの重訳です。興味深いことに、故柳沼重剛教授の原典訳では、プリュネは全裸にはなっておりません。

*5:これも英訳からの重訳。

*6:内田次信訳。京都大学学術出版会『ルキアノス全集〈4〉偽預言者アレクサンドロス (西洋古典叢書)』所収。こちらのサイトに別の方の原典訳が無料で公開されています。

*7:上記内田次信訳に拠る。

*8:「『肖像』の弁明」。こちらのサイトに「似像のために」というタイトルで原典訳が公開されています。

(抄訳)エドガー・アラン・ポー「タマレーン(Tamerlane)」

「グーリ・アミール(王墓)」。サマルカンドに現存するティムール(=タマレーン)の墓。ウィキメディア・コモンズより。

エドガー・アラン・ポーの初期詩篇のうちの一つ。臨終の床におけるタマレーン(=ティムール大帝)の独白という形式で綴られている。人生の真相に迫らんとする少年詩人の歌声をお楽しみ下さい。原文はこちら


導師よ 俺は死を前にして(第1行~第26行)

導師よ 俺は死を前にして
懺悔ざんげがしたいのではない
俺が非道の限りを尽くしてふけってきた罪の重さを
このに及んで減じてもらおうなどと
夢にも思うとすれば 俺は阿呆だ
俺にはもう寝ぼけている時間などないのだ
あんたの言う「希望」とは何か
それは身を焦がす欲望の炎に過ぎない
俺に「希望」があるとすれば いやもちろんあるが
それはもっときよき源より発するものだ
爺さんよ あんたを愚弄する気はないが
俺が今したいのはそんな話ではない

どうか恥を忍んでありのままをさらけ出す
この俺の胸のうちを察してくれ
この俺に残されたのは盛名とともに
冷めてゆく情熱の一部分のみ――
それは地獄のオーラのごとく わが玉座星飾ほしかざ
宝石のきらめきのうちにかすむ栄誉とともに――
また一つの苦痛とともに それは堕地獄の苦痛も
もはや恐れるに足りぬほどの激痛なのだ
おお若かりし日々を
いたずらにいとおしむ俺の心よ
死せる時間の不死なる声は
いつ果てるともなきリズムを刻みながら
呪文にも似た調べをなして
お前の空しさの上に 弔鐘と鳴る

わが激情はその災いの時より(第65行~第95行)

わが激情はその災いの時より
猛威をふるうに到った それで権力の座に就いて以降は
世人が俺を根っからの
悪人と見なしたのも無理はない
とはいえ導師よ 俺が今よりもはるかに
とがっていたわが少年時代――
その頃(なぜなら人間は誰しも
年を取れば丸くなるものなのだから)
その頃でさえ この悪漢が女の弱さに
弱いことを知っている者が一人いたのだ

人を好きになる楽しさ
それは言葉ではとても言い尽くせない
だから俺は愛した女の
美以上の美についても 言いあらわそうとはするまい
心に残るその顔立ちは
さだめなき風にそよぐ影のごときものだ
それで思い出すのは 知識欲に燃える目で
古代の書物のあるページを見つめていると
意味のある文字が 遂には
意味のない空想へと
溶解するのを 俺は感じたものだ

それはそれは愛らしい少女だったよ
少年時代のわが恋は
天上の天使たちさえ焼きもちを焼きかねない
そんな恋だった 彼女のまごころは神棚で
俺のあらゆる想いと望みとは
香煙とくゆり立ち お供えとなった
それはすべて彼女の初々しいお手本にならって
幼稚でまっすぐでピュアだったから
どうして俺はこれを捨て 光にそむき
内なる炎を頼んで漂ったのか

サマルカンドを見よ(第165行~第186行)

このサマルカンドを見渡すがいい
世界に冠たる都市だ この陸離たる壮観は
他市の追随を許さない 主要国の命運は
この都市の掌中にある かつて栄華を誇った
あらゆる花の都を尻目に
この都市は時代を独走中だ
この都市の無価値な敷石のかけらは
他国の玉座の一角を成すことだろう
そうしてここを築き上げたのはこの俺だ ティムールだ
この王冠をいただいた無法者が
諸帝国を傲然ごうぜんと踏み荒らす姿に
万人が仰天したのだ

おお恋愛よ われわれが天国に望むものを
下界において体験させてくれる精霊よ
シロッコの吹き荒れる平原に降る
慈雨のごとく心をうるおす者よ
お前はひとたびその神通力じんずうりきを失うや
人心を砂漠のごとく荒廃させる
理念よ 音程のはずれた音楽と
狂気から生まれた美とによって
人生をがんじがらめにする化け物よ
さらばだ 俺は世界を制覇したから

俺が家に帰ると(第213行~最終行)

俺が家に帰ると 俺の家はもう無かった
わが一族は離散していたからだ
空き家の苔むしたドアを出ようとすると
俺は足音を立てないで歩いていたにもかかわらず
何かしら物音が 誰かの声らしきものが
懐かしい声のようなものが 玄関に響いた
地獄よ お前の火の寝床の上に
これよりも惨めな思いをしている者の姿を
見せられるものなら 見せてくれ

導師よ 俺は固く信ずる――
俺は知っているのだ――なぜなら
亡き人々が住む遠い国から
欺瞞など存在しない幸せな国から
この俺を連れ去ろうとしてやってくる「死」が
その鉄製の門扉もんびを半開きにしていて
そこからあんたの目には見えない「真理まこと」の光が
「永遠」を通して差し込んでくるから――
俺にはわかる 魔王イブリースは
人生にわなを仕掛けているのだと
でなければ 俺が「恋」の神様の
聖なる森をさまよっていた頃――
「恋」はその白い翼の上に
誠心誠意だけから立ちのぼる
燔祭はんさい供物くもつの薫りを載せて
日々送り届けてくれたのに――
その心地よい隠れ家は格子窓から
差し込む天空の光にあふれ 下界から分離され
どんな微塵みじんも どんな小蠅こばえ
「恋」の炯眼けいがんがことごとく暴露してくれたのに――
「野心」はそもそもどのようにして
この純愛の楽園へと姿なく忍び込み
果ては「恋」の乱れ髪の中でげらげら笑いながら
跳梁ちょうりょうするまでに到ったのだろうか