魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

霧島兵庫『信長を生んだ男』

以前の織田信秀の墓入口

2015年に撤去される前の織田信秀の墓の入口。名古屋市中区大須、亀岳林万松寺境内。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんより紹介文を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

プロローグ

霧島兵庫『信長を生んだ男』(新潮文庫)を読了して。
1575年、織田信長は、黒糸縅くろいとおどしの具足に身を包み、黄絹の永楽銭の軍旗をはためかせて自ら出陣した。総大将である。この戦で信長の連枝れんし衆として、初陣ういじんを迎えた21才の若者がいた。名前は津田七兵衛信澄。信長とは伯父・甥の間柄となる。実父は以前、末森城主であった勘十郎信行のぶゆきである。
信澄のかつての傅役もりやく柴田勝家(権六)は、初陣に気負う信澄に声をかけた。「若、戦で人を殺す覚悟はよろしいか」
柴田勝家は、信澄の中にかつての主人・信行の面影を見て、20年前を感慨深く思い出したが、今は目の前の戦に集中すべしと雑念を振り払うように、わざとぶっきらぼうに声をかけたのだった。

母・土田御前の偏愛&戦に明け暮れる父・織田信秀

日本史愛好者にはお馴染みだろうが、三郎信長と勘十郎信行の母、土田御前(六角氏後裔、土田政久の息女?)は依怙贔屓の女人であった。
母子にも相性があるのか、何らかの要因があるのかは不明だが、いずれにしろ長男を冷遇し、次男を溺愛する母親が珍しい訳ではない。
もっとも信行の側からすると、常に子供の先回りをする、躓きそうな小石を取り除き、掃き清めた道を用意する(それ以外の道を通ることは許さない)毒親(?)。そうなると子供は飼い犬、もしくは所有物の扱いに甘んじるしかなかった。決裂する選択肢もある。容貌的には信長の方が母親似で、信行は夫・信秀の面差しを受け継いでいた。
普段の信長は悪童姿。紅い紐の茶筅ちゃせんまげ湯帷子ゆかたびらの上に熊の毛皮を肩脱ぎにする“定番スタイル”は、実母への「お前の思う通りにはならないぞ」との宣戦布告だったのかもしれない。
かくて、折り目正しい白面はくめんの貴公子と、うつけを地でいく悪童が出来上がった。この確執は、表面上、信行が死を迎えるまで続く。夫の織田弾正忠だんじょうのじょう信秀との間には、この2人の外に秀孝、信包のぶかね、市、犬の4人の子供を授かった。
では、夫の織田弾正忠信秀は何をしていたのか?
尾張守護代二家の大和守家やまとのかみけの庶流、清州三奉行の「弾正忠家」との低い家格から抜け出すべく、戦陣を駆け回り、忙中閑ありとばかりに(?)側室や侍女との間に20人以上(?)の子供を儲けたらしい。
何ともエネルギッシュで、人生の時間を無駄使いしない、前進あるのみの人物と思われる。
そして、信長の尾張統一の基礎を作った父親でもあった。

斎藤家と織田家の婚姻同盟の成立と、父の死。

そのような慌ただしい日々の中、美濃の斎藤家と織田家の間に婚姻同盟が成立する。
信長の傅役、平手正秀が活躍したのだ。
お披露目の宴会の夜、信行は帰蝶の目の表情が信長に似ていると思う。帰蝶に惹かれる自分に気が付く。幼き日に兄・信長と奪い合いをした龍笛りゅうてき、母から賜った龍笛で、一曲演奏することになる。これ以後、帰蝶の願い事は断れなくなる。
1552年、尾張の虎と謳われた織田信秀が病死する。信秀の遺言は「家督は三郎に譲る。信行は兄をよく支えよ」です。
信行の聞いた父の最後の言葉は「この世は喰うか喰われるかだ。張り子の虎では生き残れない、本物の虎になれ」です。信行は父より末森城を受け継ぐ。
何故父は、最後に常識人(マナーの教本のような)で、兵法書などを諳んじるほど研鑽した自分ではなく、何事にも桁外れの兄を後継者に指名したのだろうか?不可解な思いと共に、万松寺ばんしょうじでの葬儀は進む。そして、有名な信長らしい焼香。傅役・平手正秀は、その後、諫死かんしした。

平手正秀の突然の死に血の涙を流す信長。後悔をかみしめる帰蝶。自分への日頃の憎まれ口の意味を知る(幼き日の父母への愛情争奪戦が発端にしろ)。
その時、信行は、兄の右腕(軍師)になることを決心する。織田家の内訌を防ぐための汚れ仕事は自分が引き受けようと・・・。
柴田勝家をわざと裏切らせ、信長の身近に仕えさせ、兄弟和解の段取りをつける。
最初の仕事は、曲舞鑑賞のため城外に出た那古屋城主で親族筆頭衆の織田信光を、乱心した家臣に惨殺させる(仕物にかける)。

そのような信行を死病が襲う。父・信秀と同じ病に罹ったのだ。お抱え医師に余命宣告された信行は、自分に与えられた天命を全うする覚悟を決める。
兄・信長を屠るのだ。謀反を起こすのだ。こうして1556年、稲生いのうの戦いが起きる。
それと共に、信長に人間らしさをもたらす兄嫁・帰蝶の存在を危険視する信行の取る行動とは?
稲生の戦いの後、末森城で、母・土田御前と信行の会話。
「命乞いに参ると申したのか」
「さようです。清州城まで御同行願えますか」
この会話に続く土田御前の言葉とは?取った行動とは?
織田信長は、何故信行の長男、津田七兵衛信澄を優遇したのか?

従来の織田信行の評価を変えずに、霧島兵庫ならではの視点からの織田信長・信行を発見することができます。
武辺者一辺倒に見えた柴田勝家の頭脳の面も見られます。
お楽しみください。
天一

再読・多島斗志之『黒百合』

西宮空襲

1945年8月6日、5度目の空襲直後の西宮市街地(白鹿酒造記念博物館所蔵)。神戸新聞のホームページより。総務省のホームページによれば「5回にわたる空襲による西宮市の罹災面積は225万3,000坪で、全市面積の約20%にのぼった。県下で2番目という被害であり、死亡者637人、重軽傷者2,353人、全焼全壊約1万5,300戸、被災者6万6,500人余」云々。

現在失踪中の天才作家、多島斗志之氏の『黒百合』について、一天一笑さんから再度紹介文を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


多島斗志之『黒百合』(東京創元社)を再読して。
1952年、14歳の少年、寺本進は、六甲山にある別荘に招かれてひと夏を過ごすことになる。
きっかけは、父の旧友、浅木謙太郎が、進の家に晩餐に来た時のひと言だった。
「夏休みになったら、うちにこないかね。六甲山に小さな別荘がある。下の街とは気温が八度も違うから涼しく過ごせるよ。君と同い年の息子、一彦もいる、きっといい遊び相手になると思うよ」
クーラーなど無い時代に、ひと夏を涼しく過ごせるのは、進にとって願ってもないことだった。
夏休みの日記をはじめとする宿題も捗るかもしれない。
こうして、寺本進は初めての関西へ避暑に行くことになる。
少し鈍感で平均的な少年、進。如何にも利口そうな、格好つけの一彦。彼らはヒョウタン池で「この池の精」と名乗る倉沢香と偶然出会い、淡い初恋を経験する。一彦と香と進の微妙なトライアングルの行方は?

香は、夏休みの水彩画の画題に、泳ぐ進と一彦を描く。三人はその他ピクニックや、倉沢家訪問をし、香の叔母の日登美(倉沢貴久男と貴代次の実妹)も交えてトランプゲームのポーカーで遊んだりする。
また通称“六甲の女王”の経営する喫茶店に出入りもする。
倉沢香は、お嬢さん学校の神戸女学院中等部に在籍している。香は、西宮空襲で父、倉沢貴久男を亡くして、複雑な家庭環境の下、倉沢家で暮らしている。経済的に裕福であっても、倉沢家が香にとって居心地が良いかどうかは分からない。
香の言葉「お父ちゃんは、高いカメラ(ライカ)や双眼鏡を購入しても、飽きたらそれっきりで、見向きもしない」には何やら含みがありそうですが・・・。
倉沢家は女中を数名雇い、社用車はもとより、高級外車ビュイックとお抱え運転手を維持する富裕層だ。進の父の勤務先は東京電力、一彦の父親も阪急電鉄(ここでは「宝急電鉄」)本社で小芝一造(=実業家の小林一三いちぞう)の海外視察にお供する。彼らは何れも旧帝大を卒業している。彼らの努力もあるが、終戦から数年後の社会では、まず恵まれた階層と言えるでしょう。
浅木の小母さんも何くれとなく、進の居心地が悪くならないように気づかいをしてくれる。

そのような日々に殺人事件が降って湧いたように起こる。被害者は、倉沢貴代次だ。
凶器の拳銃は犬を散歩させていた“六甲の女王”が発見する。その拳銃は誰のものか?貴久男は、本当に空襲で命を落としたのか?空襲のドサクサで、機関銃の傷も拳銃の傷も確認されなかったのでは?貴代次は誰に、どんな理由で殺されたのか?
警察は、使用人を含めた倉沢家の人々に事情聴取を試みるが、倉沢貴代次の違法賭博による多額の借金が明るみにでてしまった(どこの家にも変な癖のある人はいますが)。
進と一彦の初恋の顛末は?香は何時どんな状況で倉沢家を出るのか?

物語は1952年と戦時中(小林一三のドイツ・ロシア視察の頃)を前後しながら進行する。
ドイツ・ベルリンの駅で駆け落ち志願?のアイダ・マチコという少し風変わりな女性とも関わったりする。ここで小林一三が意外な一面を見せる。“百貨店は女性客に嫌われたら詰む”の信念が遺憾なく発揮されている。また決して時間の無駄遣いをしないエネルギッシュな人柄も見て取れます。

老境に入り、遠い日の出来事を回想した進が気づいたことは?
倉沢貴久男と喜代次は、日登美の交際範囲内の人物に殺されたのではないか?
動機は?彼らは二人とも年頃になった妹、日登美に悪い噂が立つことは何としても避けたかった。

避暑地での初恋と、不慮の殺人事件。才人・多島斗志之の傑作ミステリーをお楽しみください。
天一

ジョン・トレシュ(John Tresch)「科学記者としてのポー(Edgar Allan Poe, Science Reporter)」

近著『夜の闇の理由――エドガー・アラン・ポーアメリカ科学の鍛造(The Reason for the Darkness of the Night: Edgar Allan Poe and the Forging of American Science)』が好評の科学史家ジョン・トレシュ教授が、このコロナ禍の時代にポーを読み返す意義について語ります。例によって元記事を書いた人には無断で訳しますので、あくまで短期間の公開にとどめたいと思います。原文はこちら。

slate.com


Edgar Allan Poe, Science Reporter
His wild, sometimes forgotten science writing has a lesson for our COVID moment.

BY JOHN TRESCH
AUG 02, 2021 5:45 AM

「赤い死の仮面」

エドガー・アラン・ポー1830年代のアメリカにおけるコレラパンデミックの経験者である。ポーの妻は1842年、肺結核による最初の発作で喀血し、彼はその看病に四苦八苦することとなったが、その事件の直後に発表されたのが「赤い死の仮面(Masque of the Red Death)」*1であった。この感染症に関するクラシックな短編小説は、このところ、約一年と半年にわたって話題となっているけれども、その理由ははっきりしている。時は中世、プロスペロ公爵とその堕落した客人たちは、ある宮殿に引きこもり、外界で猖獗しょうけつを極めている感染症から城壁によって隔離されたと考える。彼らの破滅は迅速かつ衝撃的だ。公爵が催した仮面舞踏会に、感染症は死人のコスチュームを着て忍び込み、彼に目を付けられた道楽者たちは「一人また一人と、舞踏会場を血に染めながら倒れ」、不気味な末行では「暗黒と腐敗と赤い死とが一切の上に永く君臨するに到」る。
この短編は人間が感染症に対して抱く恐怖を利用しているわけだが、ポーの生涯と業績とのうちに、現代、すなわち公衆衛生や科学や情報伝達におけるこのコロナ危機の時代(COVID-era crisis)において、その存在をより有意味レリヴァントなものとする側面があることはあまり知られていない。私が近著『夜の闇の理由』の中で述べているように、ポーは科学と、人々が科学を疑ったり信じたりする理由に対して、強い関心を持っていた。彼の存命中、科学的実践や説明は緒に就いたばかりだったが、それらは今日よりもはるかに厳しい社会的反発に直面していた。彼は科学の発展を綿密に追跡し、その進歩を支持する一方、その限界と乱用とを指摘した。彼は科学の力が政治的支援に、またその誤謬の率直な容認に――そうしてまた、とりわけ良き語り口グッド・ストーリーに、いかに依存しているかを示したが、彼のやり方は今日の研究者たちや科学解説者たちにとっても参考となるかも知れない。

19世紀アメリカの思想背景

ポーは1809年、チャールズ・ダーウィンと同じ年に生まれた。彼はウェストポイントで数学と物理学の訓練を受け、退学処分を受けた*2後も、19世紀初頭の急速な発見と発明とについて、常に最新の情報を確保していた。写真、蒸気機関、電信、鉄道は、技術革新による無限の進歩の兆候と見なされていた。運河や線路を作るための発掘調査で見つかった地層の研究によって、地球の絶え間ない、時として壊滅的な変動が明るみに出る一方、恒星や遊星や銀河の形成に関する新しい理論は『創世記』の記述と激突した。動物種が純粋に物質的なプロセスを通じて進化した可能性があるという説は、次第に支持を集めながらも、教会の猛烈な抵抗に遭遇した。
他方、情報やエンタテイメントに対する人々の欲求を満たしたものは、新しい健康増進術ヘルス・キュアを布教する自称「医師」たちや、全国各地を経巡へめぐりながら、天文学から動物学にいたるまで、あらゆる話題に関する馬鹿げた学説を展開する職業講演家レクチャラーたちであった。ブロードウェイではP. T. バーナム(Phineas Taylor Barnum)の「アメリカ博物館(Barnum's American Museum)」が「フィジー人魚」(サルの上半身に魚の尻尾を縫い付けたもの)などの「大発見ディスカバリー」を展示して議論を招く一方、地方を巡回営業している南北戦争以前アンテベラム理系男子テック・ブロたちは電気通信や飛行機械への投資計画を売り込んでいた。

Feejee mermaid

1842年、『ニューヨーク・ヘラルド』紙に掲載された「フィジー人魚」の写真。ウィキメディア・コモンズより。

知識と自然の秩序をめぐるこれらの衝突が激化する中で、そうして同時に奴隷制をめぐる嵐が吹き荒れる中で、アメリカはメディア革命をも経験していた。新聞や雑誌の数は爆発的に増加した。今日、一つのツイートがリツイートによって世界中に拡散されるのと同じように、ニュース・アイテムはカットされ、コピーされ、他紙から他紙へと転載され、元記事を書いた人の意図や信用がないがしろにされる点でも同様だった。

最新の科学的知識の文学作品への応用

ポーの筆はジャンル間を行き来し、時には事実を説き、時にはフィクションの劇的効果を上げるために、科学的知識を利用した。彼はリッチモンドフィラデルフィア、ニューヨークの雑誌で働いている間、科学および技術の発展に関する確かな評価を発表した。彼が生前出版した本の中でもっともよく売れたものの一つは貝類学の教科書*3だった。彼はまたフィクションの分野においても科学的な事実および理論を頻繁に活用した。それはたとえば博物学流体力学の知識に裏打ちされた彼の1841年の航海スリラー「メイルシュトロームへの降下(A Descent into the Maelström)」*4であって、そこでは主人公がノルウェーの渦潮の絶体絶命な旋回に巻き込まれるが、観察と推理とによって水難を免れる。同じ年の別の短編「モルグ街の殺人事件(The Murders in the Rue Morgue)」*5では、ポーは斬首された母親と、絞殺され、密室の暖炉の中に押し込まれたその娘という、二つの死体の形をした戦慄すべきパズルをもって読者と対峙した。この小説において、ポーはただ単に探偵小説の悪趣味なお約束トロープを発明し、のちにシャーロック・ホームズのモデルとなるところの平和を愛する思索家オーギュスト・デュパンを世に出しただけではない。彼は当時の天文学的および生物学的論争や、過度に劇的な物の見方や、ずさんな検証やらに介入し、歩みののろい経験主義と、研ぎ澄まされた直観による飛躍との間の大きな相違に光を当てたのである。

A Descent into the Maelström

ハリー・クラーク「メイルシュトロームへの降下」。ウィキメディア・コモンズより。

このような作品において、ポーは新しい科学に対する大衆の興奮を利用した。その方法と発見とを広く世間に伝えながら、彼自身は常に一歩先を歩いていた。科学の公の顔はこの当時、紳士的なアマチュアのための娯楽から、膨張する諸国家にとって重要な、一律に訓練された専門職へとシフトしつつあった。ポーの存命中、結束した一握りのアメリカの科学者たちは、「科学の道に精進している真人間」とペテン師の類いとを区別するための国家機関を建設する計画を推進した。彼らの努力はスミソニアン協会(Smithsonian Institution)やアメリカ科学振興協会(American Association for the Advancement of Science; AAAS)の設立につながった。ポーはそのようなプロジェクトを支援するコラムを書く一方、アメリカ文学のレベルを引き上げるため、彼自身の雑誌の発刊を立案した。彼が計画し、最終的に『ザ・スタイラス(The Stylus)』と名付けられた雑誌は、非人称的で客観的な批判を推し進め、「すべての個人的な偏見バイアスから離れて」、「芸術の最も純粋な規則によってのみ」導かれるはずだった。彼は非人称的で客観的な評価基準クライテリアに基づいて文学を分析しながら、芸術作品一般の分析、さらには創造にまで、科学的な客観性をもたらすことを目指していた。

トリックスター」としてのポー

とはいえ、ポーは文学では「山師の打倒」を試みて喝采を浴びたが、ゲームと幻術イリュージョンとを愛してやまない気質から、また世人の耳目を集めたい一心から、彼自身、P. T. バーナムの法螺にも引けを取らない大法螺を吹いた。彼は1844年、『ニューヨーク・サン』紙上に、熱気球が大西洋を横断したとするデタラメに満ちた科学記事を書いた*6。メディカル・レポートの体裁で書かれ、まず二つの大雑誌に掲載された短編の中で、彼はまたある架空の実験の実録を詐称し、その内容はある患者が催眠術によって死期を延ばしたというものだった*7。この虚偽の「症例ケース」はロンドンの医学雑誌にまで転載され、議論された。このような文学的曲芸スタントは、小説やら、詩やら、ファッション記事やら、ゴシップ記事やら、科学記事やらが詰め合わせになっている一般誌上で公開され、未曾有の情報の洪水の中で曖昧化しているジャンル間の境界を利用したものであった。これらの記事がデモンストレートしているのは、専門用語を駆使することが、真実を語る上でも、法螺を吹く上でも、ひとしく役に立つという事実である。注意深い読者が騙されることはなくても、これらの記事自体に関する不審な点、すなわち誰が、何を根拠に、どんな目的でこれを書いたかについては、大衆の間に論争が湧き起こった。

The Facts in the Case of M. Valdemar by Harry Clarke

ハリー・クラーク「ヴァルデマー氏の症例の真相」。ウィキメディア・コモンズより。

ポーは科学的知識の大真面目な宣伝者であり得たにもかかわらず、同時に根っからのトリックスターでもあって、科学の盲点と限界とを暴露せずにはいられなかった。東海岸のあちらこちらの雑誌に掲載されたユーモア小説の中に、彼は科学への過信に対する疑念を込めた。「ミイラとの論争(Some Words With a Mummy)」*8では、ガルバニ電池による電気ショックで息を吹き返したエジプトのファラオとの討論の中で、フィラデルフィアの解剖学者、サミュエル・モートン(Samuel Morton)そっくりのキャラクターがその馬鹿げたうぬぼれをさらけ出すが、この男は墓や戦場からかき集めてきた頭蓋骨を調べた結果、人間の生得の人種的優劣(hierarchy of races)が明らかになったと主張した人物である。「実業家(The Business Man)」*9や「使い切った男(The Man That Was Used Up)」*10などの他の短編では、テクノロジーの無限の進歩を予言し、人生のあらゆる災いに対してデータ駆動型のソリューションを約束するところの自信過剰な功利主義的改革者たちや起業家アントレプレナーたちの主張を、ポーは攻撃した。彼が遺したデマ記事や風刺小説は、科学的方法や合理的証明が、必ずしも物事の真実性を保証するものではないことの好標本である。

独創的な宇宙開闢説『ユリイカ

ポーは科学に関する多くの記事を通じて、科学的事実がそれだけでは意味を成さないことを示した。彼によれば、綿密に織り上げられた一連の証拠エビデンスは穴だらけの臆測よりもはるかに価値があるにもかかわらず、最良の科学者たちとは、彼らの学説を直感的に感じ取れる、美的な脈絡コヒーレンス――すなわち彼のいわゆる「効果の統一(unity of effect)」によって、興味深いテイルとすることができる人たちなのである。ポーにとっては宇宙そのものが壮大に創作された「筋書きプロット」だった。彼は死の前年、1848年に発表した『ユリイカ――物質的ならびに精神的宇宙についての論考(Eureka: an Essay on the Material and Spiritual Universe)』*11の中で、その科学的かつ詩的な姿を伝達しようと試みた。ポー自身は『ユリイカ』が「形而上学と形而下学の世界に革命を巻き起こす」と信じて疑わなかったが、当時確立された天文学的および物理学的知見と、粗野な宇宙論とを不可解に結合させたものとして、まったく顧みられなかった。読者がそこに相対性とビッグ・バンとに関する不気味な先見を認めたのは20世紀になってからだった。

結論

彼が科学記事を書く際に用いた多彩な様式モード、そうして真理というものはその伝達の仕方と不可分に結びついているという彼の認識センスにおいて、激動の時代を生きたポーのアプローチは、同様に激動の時代である今の時代にも通じるものがある。宇宙を語るにせよ、気候変動を語るにせよ、パンデミックを語るにせよ、科学には今なお良き語り口グッド・ストーリーが必要なのだ。たとえばその近著『なぜ科学を信じるのか?( Why Trust Science?)』における著者ナオミ・オレスケス(Naomi Oreskes)の主張のごとく、科学史家たちや科学社会学者たちの考えでは、科学の信頼性が拠りどころとしているものは、抽象的な、すべてを包括する真理でも、統一された方法でも、孤高な天才たちでもなくて、確立された社会制度と、それが提供する多くの、繰り返し吟味された手法なのである。それらはもちろん完璧ではない。だが質問と、挑戦と、改良と、特定の事象に対する適用とを経た末に、それらはわれわれが手に入れたもっとも信頼に値するツールとなったのだ。科学者たちは、一段高いところから既成の事実を説教するかわりに(そうしてついてこれない人々に対して首を振るかわりに)、彼らが結集して行なってきた推理と懐疑と検証との長い道のりを明らかにし、様々な視点やジャンルや形態に及ぶ彼らの物語を語り、さらに語りなおすことで、彼らの権威を高めることができるであろうことを、ポーは思い出させてくれる。多種多様な人々に対して、科学的な学説や方法の妥当性や堅牢性を納得させるためのクリエイティヴな手段を探す試みは、決して無益な迎合ではなく、命にかかわる情報を行き渡らせる上で必要なケアを提供するものだと見なすべきだろう。またポーの卓越した構想や名文の数々に接した者は、STEM教育がいかに重要といえども、それが人文科学による言語表現のスキルを欠いた時、衰弱を免れないことに気がつくだろう。推理と発見との紆余曲折を語る上で、はたまた科学的結論を生徒たちに教える場合、単にそれを理解させるだけでなく、彼らの心を動かし、その言外にあるものを追求するよう仕向ける上で、修辞、演出、脚色は、むしろ必要不可欠エッセンシャルなものなのである。
ポーは狂人の口真似が巧みなことで有名だ。しかし彼の狂おしい声は、今日の情報のメイルシュトロームのうちにあっては、確固たる信念の情緒的および美的メカニズムへの彼の洞察と、科学に対する彼の原則的な半信半疑アンビバレンス(その不完全さを認めながら、その実用的な成果を受け入れる)によって、驚くほど、いや清々しいばかりに、正常健全に響くのである。


<訳者注>

*1:拙訳をご参照ください。

*2:文壇デビュー前のポーは一時期ウエストポイントにある「陸軍士官学校(United States Military Academy; USMA)」に在学していたことがあるのですが、これはフランスの「エコール・ポリテクニーク(École Polytechnique)」をモデルとして建てられた理工科学校で、ここで当時世界最先端の科学的および技術的知識を身につけたことが「(ポーの)詩人、批評家、そして作家としてのキャリアを決定づけた」とするのが『夜の闇の理由』におけるトレシュ教授の主張です。

*3:『貝類学入門(The Conchologist's First Book)』初版1839年、再版1840年、第三版1845年。ポーが生前アメリカで出版した本の中で版を重ねたのはこの本だけだったそうです。

*4:青空文庫版が無料で読めます。

*5:拙訳をご参照ください。

*6:「軽気球虚報(The Balloon-Hoax)」。創元推理文庫版『ポオ小説全集 3 』に「軽気球夢譚」として収録。

*7:「ヴァルデマー氏の症例の真相(The Facts in the Case of M. Valdemar)」。「着地した鶏」さんによる邦訳が無料で公開されています。

*8:創元推理文庫版『ポオ小説全集 4 』に収録。

*9:創元推理文庫版『ポオ小説全集 1 』に収録。

*10:創元推理文庫版『ポオ小説全集 1 』に収録。

*11:創元推理文庫ポオ詩と詩論』に収録。

門井慶喜『なぜ秀吉は』

出版社による『なぜ秀吉は』の広告。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介文をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


門井かどい慶喜よしのぶ『なぜ秀吉は』(毎日新聞出版)を読了して。
豊臣秀吉はなぜ文禄・慶長の役を強行しなければならなかったのかの謎に『家康、江戸を建てる』の著者・門井慶喜が多角的な視点から挑みます。秀吉はなぜ最晩年に「唐入からいり」に固執したのか。
戦国時代の末期から江戸時代初期の大坂、肥前名護屋城)が舞台です。
西暦1585年~1638年頃の物語でしょうか。

プロローグ

この物語は、秀吉の異父弟(実弟?)の大和郡山城主・羽柴秀長が、自分の居城から大坂城へと向かう道中、兄・秀吉とくつわを並べながら心中の煩悶を点検する場面から始まります。場所は、生駒越えの難所・暗峠くらがりとうげです。その暗峠で小休止し、茶を飲もうとした瞬間、石礫いしつぶてに茶碗が粉砕されます。秀吉は刺客に襲われました。犯人は陶工カラク(本名・鄭憲)です。
周囲はカラクの処刑を勧めるのですが、どうしたことか秀吉はカラクを解き放ちます(無罪放免)。事件などなかったかのように大坂城に入ります。

神谷宗湛

1587年(天正15年)正月、秀吉は、筑前・博多の豪商、六代目神谷善四郎(宗湛)を招きます(カラクの親代わり)。秀吉の茶頭を務める津田宗久を始めとするいわゆる堺衆と初めて顔を合わせます。秀吉からの“天下一のもてなしをしたい”とのことばを信じた訳ではないが、人を人とも思わぬ治部少輔じぶのしょう石田三成の態度や、朝鮮渡来の井戸茶碗を使用した千利休の手前に秀吉の「唐入り」の本気度を見る。そして同じく博多の豪商・島井宗室と協力関係を保ちながら、博多の経済復興を目指す計画が何故捗らないのかに思い当たる。
宗湛は、カラクの無心を受けて寄宿舎、轆轤ろくろかま付きの陶工の集合体(村)を作る。
これは、失業者対策や地域の治安維持の側面もあります。いずれ博多周辺に「唐入り」の前線基地がつくられる事を想定して、芸術品ではなく、日常使いの瀬戸物(百円ショップで扱うような)の大量生産、あるいは城や武家屋敷を築く際の瓦の大量生産が必要となる機会を見込んでの先行投資とも言えます。

他の登場人物

他にも登場人物は多士済々です。
宣教師オルガンティーノの上司ポルトガルガスパルコエリョ。傲岸不遜で空気を読まない彼はオルガンティーノを余り評価していない。宣教師ヴァリニャーノの地位はこのコエリョよりはるかに高い。ジュストの洗礼名を持つ高山右近。同じくキリスト教徒の小西隆佐りゅうさ・行長父子(「唐入り」反対)。鍋島直茂なおしげ黒田官兵衛加藤清正らの九州の大名の外に、徳川家康前田利家、豊臣秀保ひでやす(秀吉の甥、「殺生関白」と言われた秀次の弟)。清須会議でも活躍した堀秀治、木下延俊、古田織部、東北の雄・伊達政宗などが出てきます。
また、重要なポジションは任されることはないものの、佐竹義宣増田ました長盛なども出てきます。
彼らは皆等しく、筑紫・名護屋城の地面をならすところからの任務を負っています。
そして、自分たちの陣屋も建てなければなりません。武士階級として、他家に見劣りしない陣屋を建てる必要性に迫られます。このため、カラクの工場では昼夜を問わず、300人の陶工が不眠不休で生産活動に従事することになります。
何故そうまでして秀吉は「唐入り」にこだわるのか。それは誰にも判らないし、理解のしようもありません。
中でも徳川家康は、北条氏滅亡後の後釜として、関東移封を命じられたばかりでした。この時点では左遷とも思われるのですが、やがて江戸の町が出来上がります。
家康は、二回ほど良くも悪くも人前で、秀吉自身から「唐入り」の動機を聞き出そうとしますが、秀吉が機嫌よく喋ろうとすると、火急の報せが入ったりします。なので、家康にしては珍しくイライラします。
またカラクの慕う年上の武家の女(?)草千代。慕ってもどうなるものでもないと思いつつもその思いを止められない。果たしてカラクの取る行動とは?
最後の猿楽の舞台で、その謎が明かされます。

徳川家康の江戸の町造りに興味のある方は『家康、江戸を建てる』もお読みください。
僅か数年(六年程?)しか活用されなかった名護屋城建立の物語をお楽しみ下さい。
後年、朝廷から東照大権現の尊号を受け、神となった徳川家康は、なぜ一国一城令を徹底したのかが解き明かされます。
何が人々を戦に駆り立てるのかの心理描写もお楽しみください。
天一

吉川永青『憂き夜に花を』

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「2012年隅田川花火大会」。ウィキメディア・コモンズより。

表題の作品につきまして、一天一笑さんより紹介文を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


吉川永青『憂き夜に花を』(中央公論新社)を読了して。
花火見物の掛け声「かぎや~」「たまや~」の由来をひもとくと、花火屋の屋号「鍵屋」にたどり着きます。たまや(玉屋)は鍵屋から暖簾分けをした店ですが、1843年に大火事を起こし、店は闕所けっしょ。当主・玉屋市兵衛は江戸追放の処分を受けます。玉屋は一代限りとなってしまいました。
その鍵屋六代目・弥兵衛やへえの「花火は夜を照らす、人の心も世の中も照らす」との思いを胸に、隅田川花火大会に賭ける情熱と苦闘を描く吉川永青の力作です。隅田川花火大会は、毎年七月の最終土曜日に行われるのですが、本年もコロナ禍のため中止となっています。

時は1733年(享保十八年)前後。将軍は、米公方こめくぼうとも呼ばれた八代吉宗です。
時代は疫病の流行と大飢饉のダブルパンチの様相でした。
遅い梅雨明け、そして冷夏がやってきます。例年にない気候と蝗虫こうちゅう(イナゴ・ウンカ)の食害は全国的なコメの不作を招きます。コメの値段は天井知らずに跳ね上がり、町人・農民の暴動が起きそうな世情です。
主人公の六代目・鍵屋弥兵衛は、幕府の御用商人(狼煙方御用達)です。そのため、町人や浪人に、余裕のある暮らし向きであろうと誤解されたりします。
幕府の御用達であるが故に、何処で筋違いの恨みを買うかわかりません。
しかしながら、鍵屋の内情はそれほど豊かではありません。何せ夏に一年間の必要経費、職人の給料、自分たち家族の生活費等々を稼ぎ出さねばなりません。花火の季節は夏ですが、春・秋・冬も稼業を怠けているわけではなく、新商品の試し打ち等を行います。火薬も結構な値段がします。
鍵屋の主な得意先は、隅田川に屋形船を浮かべる武家ですが(町人は豪商でも屋形船に乗ることは禁止されている)、このところ物の値段の値上がりや、締まり屋で万事地味好みの吉宗の影響によって収益は捗々しくありません。試し打ちを削減しようかとの案も出ています。
また時折、江戸城三之丸の御殿に出向き、狼煙方の役人、旗本・平田左近と面会します。
平田左近は気さくな人柄ではあるものの、役人には変わりありません。平田配下の岡っ引きの甚五郎とも交流があります。
高間河岸たかまがしの打ち毀しの時に、弥兵衛と元太は、この甚五郎に助けられます。高間河岸打ち毀しとは、吉宗の命により、米を仕入れた分全部売り切るのではなく、小出しに売ることによって、米の価格を安定させた米問屋・高間伝兵衛の自宅兼店舗が、暴徒化した群衆によって襲われ、家財道具を毀され、川に投げ込まれたりした事件です。

鍵屋の店の前で行き倒れていた大工の新蔵は、大工の腕前はあるものの、気が弱く、長屋普請をタダ同然で引き受け、棟梁に暇を出されてしまった。弥兵衛と妻・佐代は、このまま放り出したら江戸っ子の名折れと、今は使い走りしかできそうもない新蔵を家に置くことを決める。
また「御用達ならさぞ儲けているだろう、この南部鉄瓶を買って当たり前だ」と強面の屑鉄売りの京次が強引に売りつけようとした南部鉄瓶(鋳物の鉄)。勢い余って土間に投げつけた瞬間、今迄見たことのない明るい火花を出すことに注目した弥兵衛は、京次も住み込みで雇うことにした。この南部鉄瓶を研ぎ上げて細かく粉状に砕いたら、新しい花火の原料になる可能性がある。
また、弥兵衛の財布を掏りとろうとした木彫り職人の銀次も鍵屋で雇うことを決める。
銀次は、親方が高間河岸の打ち毀しのリーダーと見做され遠島。店は闕所となったため、ひもじさに耐えられず、やけのやんぱちで弥兵衛の財布を狙った。
京次、新蔵、銀次。彼らは皆“腕”を持ちながら発揮できない、八方塞がりの状況に腐っている。自分をどうしようもない“クズ”だと思いながら、“クズ”のままでは終わりたくない気持ちも持ち合わせている。
「政治が悪い、お上が悪い。白米を腹一杯食べることができるのは上(武家)だけ。何をしても無駄どころか、裏目に出るだけ」。このような憂き目を庶民に一晩だけでも忘れてもらおうと、鍵屋弥兵衛は水神祭の夜に花火を打ち上げる事を考案し、日頃付き合いのある商売人達を廻り、協賛金を募る。儲けが見込めないと商人は動かない。花火大会の挙行と夜店の営業については、役所の許可が必要なので、平田左近を説得する必要があります。
イベントの性質上、火除地ひよけちを使うことになるため、幕府の許可がどうしても必要です。
かなり難易度の高いハードルを鍵屋は乗り越えることができるのか?その切り札とは?

梅雨明けの猛暑に悩む夜にお薦めします。
天一